2008年12月22日月曜日

友人の死

最近親代わりの友人が10年の癌の闘病ののち死にました。導師をたのまれたのですが通夜の席上山本玄峰老師の「人間70よりは80,80よりは90、90よりは100、100よりは死んでからじゃ」と言う言葉をおしえました。遺族は故人はこれからだとわかりおおいに勇気付けられたと言うことでした。また翌日諷誦文のなかで「代受苦の菩薩として10年を生き抜いた」と故人をたたえました。遺族はことのほか喜んでおられました。そうです理不尽な病,事故にあった人は他人とくらべて妙に卑屈になることはないのです。そのひとは周りの人の業を代わって受けてくれたヒーローなのです。むしろ堂々としていていいのです。此の故人の遺族も「親しい人の業を取っていったと思います」と出棺の挨拶をしました。また故人の家族は葬儀の数日後故人がお不動様と一緒の夢をみたといいます。有難いことでした。

2008年12月4日木曜日

黄不動の不思議

「先日東寺で中天相承悉曇講傳があり第1回目を受講した帰り大阪市美術館で開催されている「国宝三井寺展」にいってきました。三井寺門外不出の秘仏「黄不動」(国宝、)が拝観できるからです。毎週護摩を焚いているものとして日本三大不動の一が拝観できる機会を逃すわけにはいきません。美術館は平日にもかかわらず多くの天台檀徒で混雑していました。
いろいろすばらしい展示があり何度もたちどまりながらしかし時間がなかったので1直線に黄不動のところにいき拝みました。この不動尊は天台五代座主円珍が若き日、比叡山で12年の籠山行中岩窟で感得されたものです。両眼をカッと見開いた黄色の等身大のお体で虚空に直立されています。「胸に条帛を着けず、天を向く二牙を持ち両目をカッと見開く図像は、まったく儀軌にあてはまらないもの。隆起した筋肉質の体といい、足下に何も踏まない構想といい、いかにも虚空示現の伝説にふさわしいもの。」と解説されています。そしてそのお姿を刻した秘仏、等身大の黄金の不動明王立像も展示されており拝することができました。何度も拝みました。
そしてここからが不思議なのですがこの5日後の一昨日金沢文庫の釈迦遺跡展を拝観したときなんとこの三井寺の黄不動について『黄不動口伝』という文書が展示してあったのです

2008年11月21日金曜日

不二ということ

西新井大師で大師招来の現図曼荼羅の平成版原寸大の巨大複製が15年かけて完成したというのでその製作者の中村師のはなしを聞きました。師によると胎蔵曼荼羅の裏は金剛曼荼羅の表であり金剛曼荼羅の裏は胎蔵曼荼羅の表であるということです。すなわち金胎不二ということです。

よくよくかんがえると生と死もこのような構造になっているのではないでしょうか。生のうらは死の表。死の裏は生の表すなわち生死不二というように。

また煩悩と覚りも同じように悟りの裏は煩悩の表、煩悩の裏は悟りの表ともいえるのではないか即ち煩悩即菩提というように、と思い至りました。

2008年11月17日月曜日

法縁の深さ

先日護摩堂で護摩の準備をしていたところ何組かのおまいりがありました。

お参りする人たちも家族でという方はそう多くありません。そんな中すっきりした感じの3歳くらいの子供をつれた若夫婦とその母親がお参りに来ました。わたしはいつものようにお祀りしている閻魔さまやお不動様のことを諄々とおはなしし仏様は祈れば何でも助けてくださることを伝えましたが最後にそのお婆さんが「じつはわれわれは浄土真宗の寺のものです」というのです。

釈迦に説法とはこのことです。なにか熱心にきいてもらったのが申し訳ない気もしましたがその方たちは「いいおはなしをきかせて戴きました。とくに閻魔様が老人、病人、死人になって人生の真実を教えていると言うことは知りませんでした。たいへん参考になりました。」と感激してくれました。

そしてなんとこのかたたちのお寺は鹿児島に在るといいます。私も岡山の寺をでてこうして東京でふらふらしているのですというとこの方たちも一度寺を出たがいまはまたもどってお母さんが尼さんとして寺を守っているというのです。

鹿児島は私も数十年前一年間だけ勤務したことのあるところです。寺を出たと言う境遇も似ていて何か大変懐かしい気持ちになりました。何十年も昔が甦ってくる気がしました。

そもそもこうして護摩と焚いているところは浄土宗の寺です。浄土宗大本山増上寺は子供が小さいとき家族で散策をかねて何度もお参りに行ったところでもあります。

また岡山の寺をでて40年後のいまでも不思議なご縁で地元の自治体のかたとのつながりも復活しています。
法縁無尽とは此のことです。

2008年11月8日土曜日

お経には不思議な功徳があります。

お経の功徳について、お経には不思議な功徳があります。

「法華経陀羅尼品には「(お経を)受持し、読誦し、義を解(さと)り、説の如く修行せば、功徳はなはだ多し」とあります。

  白隠禅師も「(観音経は)場所を選ばず、時節を嫌わず、馬上にても枕上にても、行住坐臥の間において、間断なく唯読み得るを貴しとする由」(辺鄙以知語)と説いています。


読経は単に読むのでなく「我々の一念一念の中に未来際を尽くして説法を続けておられる佛の声を聞くこと」(玉城康四郎東大名誉教授)であります。

そしてさらに読経の瞬間は身は合掌し口はお経を唱え心は仏様を念じているのですから身口意の三業が三密に転化しており即身成仏しているともいえるのです。

那須政隆師は「祈ることそれじたいがもはや結果なのである。祈祷の秘訣は自己のすべてを祈祷にうち任せるか否かにある。結果の如何を思い煩うものには到底真の霊験は望みえない。日夜に祈って倦まなければ必ず福智円満の悉地に恵まれ人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」と述べています。

身の回りにもうつ病で何回も入退院を繰り返していた人が病床で般若心経を写経し繰り返し唱えることで完全に回復した例があります。

僧侶もお経を繰り返し唱えることが大切な行の一つとされています。自分自身も限りないお蔭を戴いています。

高野山や遍路道のほとりには多くの「光明真言百万遍之碑」等を見かけますがこれらを見ても昔からお経を繰り返しとなえることが熱心におこなわれてきたことが分かります。

1、 般若心経の功徳について
・お大師様の「般若心経秘鍵」には「誦持講供すれば則ち苦を抜き楽を与え、修習思惟すれば則ち道を得、通を起こす。」とあります。(即ち現世利益も覚りもともにいただけるということです。)

・訳経者の玄奘三蔵自身が印度への求法の旅の途中で悪鬼に襲われたとき般若心経を唱えて救われたとあります(大慈恩寺三蔵法師傳)
他のお経にも功徳が書いてあります。
・「良家の男子にせよ女子にせよ、この知恵の完成を書きしるして、みずからも唱え、他人のためにも書きしるして与えるとしよう。彼は、(無数の有情を禅や神通に定着させる)良家の男子や女子よりも、より多くの福徳をやすやすと得るであろう。さらにまた、良家の男子や女子が、意味に通暁してこの知恵の完成を唱え、前の(人と同じ)ように、他人のためにも書きしるして与え、その意味文字とともに説明し、解釈してやるならば、カウシカよ、その良家の男子や女子は、より多くの福徳をやすやすと得るであろう。『八千頌般若経』
・『金剛般若経』」には「さて、スブーティよ、女子にせよ、男子にせよ、朝のあいだにガンガー河の砂の数に等しい(自己の)身体を喜捨し、同様に、間にもガンガー河の砂の数に等しい身体を喜捨し、夕刻にもガンガー河の砂の数に等しい身体を喜捨するとしよう。このようにして、百・千のコーティ・ニユタという多くの劫のあいだ、身体を喜捨しつづけるとしよう。他方、この法門を聞いて、(それを)謗らないものがいるとしよう。(両者のうちで)後者こそが、そのことによって、より多くのはかりしれない無数の功徳を集積するであろう。まして(の法門を)書写して把握し、記憶し、読誦し、理解して、さらに他の人々にくわしく説明するものはいうまでもない。
古来心経は障碍の除去とくに除病に効くとされてきました。
・天平時代、国家の平安を祈り聖武天皇と光明皇后が書写された「隅寺心経」は今日でも『般若心経』写経のお手本とされています。
・宝亀4(773)年には疫病が蔓延したので告示が出されました。「それ摩訶般若といっぱ諸仏の母なり。天下これを念ずれば兵戈災害も国中におこらず、庶民これを念ずればすなわち疾疫霊癘鬼も家内に入らず。この善利によって・・よろしく天下に告ぐべし摩訶般若を念ぜよ。」(般若心経を念ずれば国には平和が訪れ、庶民は病気や不祥事から逃れることが出来る。般若心経を念じなさい。)というものです。その後疫病はたちまち止んだといいます。
・またお大師様の「般若心経秘鍵」には「ここに帝王、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って、般若心経一巻を書写し 奉りたもう。 予、講読の選にのっとって、経旨の宗をつづる。いまだけ結願の言葉を吐かざるに、 蘇生の族、途に佇む。夜 変じて、日光赫赫たり。これ愚身が戒徳にあらず。金輪 御信力の 所為なり。(弘仁9(818)年の大疫にも嵯峨天皇が般若心経を写経されたので病気が治ったひとびとが道に佇んだ。)」とあります。
嵯峨天皇を始め、後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格天皇などは宸筆写経をされ、現在でもこれらは京都大覚寺内の勅封般若心経殿に納められています。

・当麻寺の中将姫は1000巻の写経の功徳によって、極楽浄土を感得され国宝・綴織當麻曼荼羅を刺繍されたとされます。
・塙保己一は34才で『群書類従』の出版を決心した時、北野天満宮に『般若心経』100巻を千日間あげて完成を祈願しました。そして41年かけて見事、文政2年(1819)74才で『群書類従』全670冊を刊行しています。
・妙極堂教戒(浄厳)は「なぜに般若をもって法楽となすや、かの如来などはみな般若の威力によって生ずるが故に、諸天などはみな般若の威力によって生ずるがゆえに、般若を聞くときに往恩を報ぜんがための故にきたりて護持をなすなり。」といっています。


2、 観音経の功徳について
   観音経そのものが正式には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」というように「観世音菩薩」が「普門」(あらゆるところ)示現されて衆生済度をされるというお経ですからお経そのものが観音様の功徳を書いてあります。(実は観音様とは自分自身でもあるのですから「普門」は当然ではあるのですが・・・)。
・天台大師智顗は「摩訶止観」で、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)救済の六観音を説き、「観音玄義」で観音様と衆生は元来一つである述べ、入滅に際しては、観音さまの来迎をうけて往生されたと伝えられています。
・日本仏教の祖、聖徳太子は「法華義疏」の中で観音様が種々の肉身を現して衆生済度することを説いています。親鸞聖人は聖徳太子を観音様の化身と呼んでいます。
     ・今昔物語巻十六には観音様の霊験が四十ばかり集められています。例えばその中の第一話 は「僧行善観音の助けによりて震旦よりかえりきたれること」というもので仏法のため 高麗にわたった僧が唐との戦にまきこまれて兵におわれ河を渡ろうとするが橋も船もなくこまって観音様を念じると突然老翁が操る船がきて渡してくれるがそのあと船、翁ともに消えてしまいます。「行善これ観音のたすけたまふなりけり。とおもひて・・観音の像を造り奉りて供養して日夜に恭敬したてまつること限りなし。」とあります。第十六話としては有名な蟹満寺の縁起があります。「山城の国の女人、観音の助けによりて蛇の難を逃れること」と言う題です。日頃観音経を読誦し観音様を念じていた女性が道で蟹を助けます。一方、ふとしたことでこの女性は大蛇にみいられ家を襲われますが僧がきて「玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃・・」等と唱えよと教えます。そのうち多くの蟹が現れ蛇を退治し女性を助けたと言うものです。「その後、蛇の苦を救い、多くの蟹の罪報を助けんがために・・その上に寺を建て・・」これが蟹満寺であるとしています。第二十五話は「島にはなたれし人、観音の助けによりて命を存したること」というもので悪人により無人島にとりのこされた大隈の掾という人が無人島でも毎日観音経をあげていたところ突然釣り船が来て助けられたという話です。
    ・道元禅師も中国からの帰途、船が暴風雨に逢うが観音経を読誦し助っています。 
・「坂東観音霊場記」の著者亮盛も桑名沖で時化にあい遭難しかかったとき観音経をあげ坂東を巡り霊場記をあらわすことを観音様に誓約して難を逃れています。  
・白隠禅師は「辺鄙以知語」で「(観音経を)読誦する人 、僧俗男女をえらばず、或は難病を治し、或は災難を遁れ、あまつさへ読む人必ず長寿を得。」と説いています。
・高村光雲は浅草の観音様をおまいりして仏師になる決意をしています。
・熊平金庫(広島)の熊平源蔵氏は日頃信仰する観音さまのおかげで8月6日にさまざまなハプニングがおこり電車を遅らせたおかげで原爆にあわなかったと「わたしの観音霊験記」に書いています。                                                                                                                                                                                                                                   
      

2008年11月1日土曜日

数珠のこと

数珠は108顆を通常とします。片方に54ずつあります。この54は菩薩の十信、十住、十行、十回向、四善根、十地の54位を表すとされています。このうちの片方は本有(本来持っている佛性)、片方は修生(修行によりたどりつく佛性)をあらわすとされています。糸は観音様でこれは修行する人その人を表します。修行者が54の位をあまねく経ることを表します。

次におおきな母球は阿弥陀如来で悟りの結果(佛果)を表します。したがってつま繰るとき母球を越えないようにします。佛果より上はないからです。

母球の下に一の小玉があるのは補処の弟子です。その下に5こずつついている10個の記子(かずとり)は十波羅密を表します。

54だけの数珠は修正の五十四位を表しています。
42このものは十住、十行、十回向、十地、等妙の四十二位を表しています。
27このものは小乗の27賢聖
21このものは本有の十地、修正の十地、佛果を表しています。

「数珠功徳経」には「菩提子の念珠を手にして身に随えば、福を得ることは無量」とあり、
「一字頂輪王儀軌」には「珠を敬うことは佛に対するのとおなじようにすべきで軽々しく扱うべきではない。なぜならば珠によって功徳をつんで速やかに成就できるからである」とあります。

2008年10月21日火曜日

発心も修行もエンドレスに必要

先祖供養がエンドレスに必要と書きましたがその前に我々の発心がエンドレスに必要なのです。エンドレスに発心しエンドレスに修行し、エンドレスに先祖供養するのです。

道元禅師も発心を百千万発するなりとおっしゃいました。(「仏道の身心は草木瓦礫なり、風雨水火なり。これをめぐらして仏道ならしむる、すなはち発心なり。虚空を撮得して、造塔造仏すべし。谿水を掬して、造仏造塔すべし、これ発阿耨多羅三藐三菩提なり、一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし」(正法眼蔵・発無上心) )

2008年10月13日月曜日

我々が覚らなければ先祖も成仏できない

我々は無始以来の先祖の遺伝子のかたまりです。つまり因縁の塊です。我々の中に先祖がいます。その意味では我々が覚らなければ先祖も成仏できないのではないかと今朝ふと思いました。そこでだいじなのが切れ目のない先祖供養になってくるのです。これでいいということはありません。我々自身が中途半端な存在ですから。われわれの修行も先祖供養もエンドレスなのです。

2008年10月12日日曜日

祈願を続けると大きな安心を得る

私の護摩のお参りに数ヶ月来ている人が今日私に「いままでは毎日なにか原因不明の不安感をもって暮らしていましたがこのごろ護摩にくるようになってからは感じなくなりました。逆に何か大きなものにつつまれている感じがしています。徐々にありがたさを感じるようになりました。」といいました。

2008年10月4日土曜日

結縁灌頂のこと

灌頂は5種類に区別される(五種三昧耶、「大日経秘密曼荼羅品」)。第一三昧耶は曼荼羅を遠くから礼拝供養させる。第二三昧耶は結縁灌頂のことで曼荼羅壇に入って投華得佛、有縁の尊号、印真言が授与される。第三三昧耶は受明灌頂、第四三昧耶は伝法灌頂、第五は秘密三昧耶。このうち結縁灌頂は略出経に「一切衆生を悉く救わんがため、その器たると否とを論ぜず、尽く引入せしめ一度入壇すれば一切の罪障遠離す。」と説く。お大師様は弘仁十三年東大寺真言院にて平城帝、十四年には冷泉院にて嵯峨帝、天長元年には仁寿殿にて淳和帝に結縁灌頂をお授けになっている。

次第は先ず塗香、洒水、覆面、次に普賢三昧耶の印を受け「おんさんまやさとばん」ととなえる。三昧耶戒といい、これは真言行者の根本態度を誓うもの。このとき「おんさんまやさとばん」ととなえるがこれは心佛衆生の三平等を信じますというもの(普賢菩薩のご真言でもあるが普賢菩薩は修行する金剛薩埵もあらわすので同じ御真言となっている)。三昧耶戒の内容は1、正法を捨てない、2、菩提心を捨てない、3、法を惜しまない、4、衆生済度に務める、の4つ。次に内陣の大壇に導かれ投華得佛する(今はすべて大日如来に投華となる)。次に小壇処において阿闍梨より三度五鈷を授けられ一印一明を授かる(省略も)。これが結縁灌頂の概略であるが要は勿体無い仏縁を頂き今後一身をなげうって衆生再度に務めますということがポイントであろうと思います。

2008年10月3日金曜日

結縁灌頂のありがたさ

10月1日高野山で結縁灌頂を同志の方々と受けてきました。ローソクの炎のなかで何十人という受者の唱える「おんさんまやさとばん」という地の底からわいてくるような声が今も耳にのこっています。また屏風の向こうから聞こえる式衆の唱える厳かな声明の響きもこの世のものとは思えません。金堂前でであった青年は四国を歩いて周りそのままこの結縁灌頂を受けるためにお山に登ってきたのだといいました。ありがたいことです。私の前にならんでいた84歳と言う老人は結縁灌頂を20回うけたが毎回ありがたくて涙がでると言いました。私も堂内で涙が出ました。しかし俗世で暮らす我々はよほど仏縁が深くなければこういう機会にはめぐり合えないでしょう。逆にこの類まれな仏縁に会えたということでわれわれは腹のそこから自信がついて高野山をあとにしたことも確かです。

2008年9月28日日曜日

新宿駅で若者に拝まれました。

9月30日福聚講の仲間と坂東5,6,7,8番を打ちおえて帰るとき中央線にのろうとすると降りてきた若者が真剣な表情で巡礼姿のわたしを拝みました。とっさのことで両手がかさと錫杖でふさがっていたためこちらは頭を下げただけになりました。一瞬のすれ違いざまに興ったことでした。四国遍路の途上では拝まれたことはありますが新宿の雑踏のなかで拝まれたのははじめてで電車に乗り込んだあと思い出してなぜか涙が出てきました。衆生のこころと仏のこころは一つだとお経にありますがまさにそのことを実体験しました。

2008年9月20日土曜日

閏年の逆打ち

今年は閏年です。閏年に四国を逆打ちするとお大師様に会えるといわれてきました。遍路の祖衛門三郎が20回遍路のあと閏年に逆打ちをして12番焼山寺のふもとでお大師様に会えたといわれています。私も3回目の四国遍路を逆打ちしました。そして18日成満しました。この間とても言葉に出来ないありがたいことがたてつずけに興りました。高野山で行を指導していただいた高僧にばったりであったり、200回遍路のかたにお接待で車に乗せていただいたうえに錦の納札を戴いたりしました。そしてなによりふしぎなことは衛門三郎の伝説が単なる伝説ではないことを身をもって体験したことです。これ以上はとても勿体無くてかけませんがこれからどのようにお大師様に御礼奉公したらいいのか考えています。

2008年9月3日水曜日

先日非常に生々しい夢を見ました。郷里の寺に帰らないかと小乗仏教の黄色い僧衣を着た私に故郷の寺の山門のところで地元の人らしき人が言うのです。わたしは東京でやっていることがあるので半々でいいなら帰ってもいいというのですがその人はそれはむりだという意味のことをいい去っていきました。何を意味するのかはかりかねています。

2008年8月30日土曜日

23年忌になる父の夢を見ました。父と妹私の3人ででかけようとするのですが妹が見つからないと言う夢です。父のゆめはまだ時々見ます。
あるひとの病気がひどくなったので遠隔で病者加持不動法を修しました。そのすぐあと電話してみると本人は電話に出てきて今急によくなったばかりだ、といったのです。有難いことでした。

2008年8月19日火曜日

8月16,17日と高尾山峰中修行に参加しました。17年に続いて2回目でしたが今回のほうが心境がすすんだ気がしました。よるローソクと護摩の炎だけの本堂での千巻経は特にありがたいものでした。一緒に言った友人は有難くて涙が出たと言っていました。下山のときはほとけさまが90人弱の参加者によく行にはげんだな、下界に帰っても衆生済度につとめよとおっしゃっているきがしました。自宅に帰ってよるお勤めをしているとしきりと空耳でほら貝のおとが聞こえました。また夢におおくの小乗仏教の衣体を付けた僧の集団が現れました。

2008年8月8日金曜日

8月になり兄弟姉妹3人ですんでいる85歳の実家の母が家を出ると言い出しました。足も悪いのに妹弟の面倒を見きれないというのです。一緒にすんで母の面倒をみていないので母に任せるほかありません。電話でいつでもかえって手伝うからと言うのが瀬一杯です。毎日先祖供養を何十年もしていてもなかなかいざと言うときは大変なのだなあとなんともいえない気持ちになりました。その日は特に念入りに母の家系の先祖供養もしました。翌日電話をしてみるとなんと母の足は医者が太鼓判を押すほど完璧に治ったと言うのです。こんなことがあるのでしょうか。

2008年8月3日日曜日

先日私の「四国八十八所の霊験」なる本を10数人のエリートサラリーマン、役人などが読書会をひらいてくれ徹底的に論じてくれました。読書会では、「四国に行きたい」というひとが4,5人でてきました。それ以外にもわたしの「苦悩するひとは代受苦の菩薩である」と言う考えや「根無し草の東京エリートと健全な地方人に分かれてきた」「おかげは必ずある」「全てに感謝するとおかげは無限である」などと言う考えにみな賛同してくれました。いままで「修羅道しか知らないエリートサラリーマンたち」と思っていたのは間違いだったかもしれないと思い始めています。かれらもこころの深いところではすばらしい佛性をもっていたのです。

2008年7月4日金曜日

身近のことで切羽つまったお祈りを1ヶ月くらいつずけました。さまざまな修法、般若心経一日200巻、川崎大師に二十一回通い、本堂のお大師さま、八十八所、不動堂をお参りするなど必死の祈りをつずけました。14日目にあたる6月28日のお不動様の日には常識では考えられない大きなお蔭をいただきました。必死の祈りは必ず叶えられると感無量になりました。涙がとまりません。

2008年6月20日金曜日

自分の生きる意味を自分で考えるのは暇な愚者のなすこと

昨日警察庁が自殺者の統計を発表しました。3万3000人ということです。この背後に100万人の鬱病患者がいるといいます。インターネット上でも『生きる意味が分からない」という書き込みが多くあるようです。結論から言うと自分の生きる意味を自分で考えるのは間違っています。あるひとの生きる意味はその人の過去現在未来の関係者すべてが考えることです。過去や未来の関係者は考えようがないというかもしれませんがおおいにあります。あらゆる存在は過去現在未来の関係性を背負って存在しているのです。自分の生きるいみを自分で考えることそのことがまちがっているのです。無限の関係性のまっだなか中にいるくせに救いがたい視野狭窄に陥っている本人に分かるわけがありません。自分の生きる意味などかんがえるひまがあったら1つでも世のためになることをするべきなのです。自分の生きる意味など考え出したらそれだけでもうすくいがたい愚かな世界に入っているのです。

正法眼蔵(生死)に
「生死の中に佛あれば、生死なし。」とあります。

2008年6月14日土曜日

家族が初めての勤務さきで大ピンチに陥りました。進む事も退くこともできない今まで経験したことのない初めての事態でした。私は家族の部屋のお大師様のお姿の前で家族で理趣経、般若心経、大師宝号を唱え、行に使った数珠を家族にもたせました。するとその日のうちにお蔭があらわれ家族の勤め先のトップが突然電話をしてきてピンチを救ってくれたのです。この後もつぎつぎと周りにお助けマンがあらわれて家族の職場のピンチを救ってくれています。なんと御礼していいか分からないくらい感動しています。自宅でも仏壇と88所掛け軸の前で数種の修法を毎日朝夕行いました。その後数日して家族をピンチに陥れていた張本人の問題上司は突然転勤となりました。あまりのお蔭のはやさと奥深さにありがたさを通り越して粛然としました。川崎大師にもおまいりにいっており、その8日目ぐらいだったと思います。21回はおまいりにいくこととしています。必死のいのりは必ずかなえられます。

2008年6月7日土曜日

昨夜有難い夢を見ました。こうです。道を歩いていると多くのならず者のような人々に取り囲まれましたが、「遍路だ」というと囲んでいた人々がとたんに態度を変え、尊敬の眼になり、奥から紙を持ってきて揮毫を頼みます。わたしは『南無大師遍照金剛」と書きました。我ながら有難い夢でした。

2008年5月24日土曜日

いのちも心もまるごとひとつ

20.3.18産経新聞「正論」に村上和雄筑波大名誉教授の「全ての命は繋がっている」との論文が掲載されています。「昨年11月京都大学の山中伸弥教授らによって新しいヒト万能細胞(ips細胞)の作成成功の快挙があった。・・・ここで忘れて成らないことがある。細胞のコピーは作れるが細胞そのものはもとからtるくることはできないのである。これはたった一つの細胞ですら生きていることがいかにすごいかということである。細胞1個が生きているだけでもすごいのに私たちの身体では60兆の細胞が毎日大きな争いも無く助け合ってみごとに生きている。・・・ヒトには数百種類もの細胞がそれぞれ独自の役割を演じながら他の細胞を助け臓器の働きを支えている。臓器はそれぞれ独自の働きを演じながら個体を生かしている。・・21世紀にはこの利他的な遺伝子と名付毛手よいものの正体の一部が解明できると思っている。1953年遺伝子の本体がDNAという物質であることその構造が解明された。そして驚くべきことが明らかになった。それは細菌をふくむ微生物、昆虫、植物、動物、人間などすべての生き物は「A・T・C・G」と呼ばれる同じ遺伝子暗号をつかっていることが発見されたのである。これは地球上のあらゆる生きとし生けるものは「A・T・C・G」を含むDNAで繋がっていることを意味している。・・私は生命科学の研究に50年以上従事してきたがつくずく感心していることがある。それは細胞核中の極微の空間に万巻の書物に匹敵する遺伝子情報を書き込み一刻の休みも無く働かせている大自然の素晴らしさである。この大自然の働きをサムシンググレートと表現してきた。地球上のすべての生き物は命の元であるサムシンググレートに繋がっていてお互いに協力しあって地球生命体を構成しているのである。」
これは心についても同じです。パスカルはパンセで「人間は極大も極小も知りえない」「この無限空間の永遠の沈黙は恐ろしい」さらに『神を知ることから神を愛することがなんてまあ遠いことだろう』といいました。真理に遠い人はみなこのように思います。ぱすかるは正直な人です。
しかし一旦、われの心は先祖の心であり、あらゆる生きとし生けるものの心である。さらには仏の心でもあるとわかればそのような考えは吹っ飛びます。
いのちも心もすべておおきなひとつのものなのです。

2008年5月16日金曜日

昨日深川の不動尊に参拝その後東京般若道場で座禅しました。座っているとさきの深川不動尊のご本尊が道場の真ん中におられる気がしてなりませんでした。釈迦牟尼会 会長・師家 山本龍廣老師の提唱はわれわれは個別の心でなく一つの心であるというものでした。いまから40年以上前の昭和41年の春井の頭公園の武蔵野般若道場で芋坂光龍老師の提唱を聞いたことを思い出しました。提唱を聞きながらなぜか涙が止まりませんでした。

2008年5月5日月曜日

四国遍路でお大師様に会った

4月末から四国を逆打ちしました。5月4日朝7時前雲辺寺手前で突然墨染めの衣を着て赤い錫杖、菅笠の方に出会いました。「ようおまいり」といってくださってすれ違いました。絵に描いたお大師様のとおりのお姿で「うるう年に逆打ちするとお大師様にお会いできるというのはこのことかと鳥肌が立ちました。そのあと雲辺寺の下で軽四輪がよってきました。乗り込むと三角寺の麓まで接待してくれました。運転していた中年の農家の人は「われわれはお遍路さんをみるとお大師様と思っているのでこうしてお接待させていただくのが嬉しいので遠慮されなくていいですよ」といってくれました。三角寺では本堂、大師堂といつものごとく縁に座して理趣経を上げていると縁の下に僧侶の一行がきて私をおがむようにうしろから般若心経をあげます。あまりのもったいなさに涙をながしておりてくるとそこにはなんと高野山の加行以来指導いただいている浅井僧正がいたのです。連休で俗人のかたを数十名バスでおまいりにつれてきていたのでした。車のお接待がなければ浅井僧正にもお会いできなかったところでした。そのあと庫裏の縁で昼食をとっていると隣に座った美人の女遍路がバナナをくれました。お大師様にお会いしたはなしをすると「それはお大師様に違いありません」といって泣き出しました。なんという信仰深いひとなのかと子供の結婚相手にどうかと勝手に思い定めてて納札を交わしました。あとで母に報告するとなんとここ三角寺の先住は父と仲のよい修行仲間だったということでした。さらに三角寺のご本尊は生家の寺のご本尊と同じ十一面観音様だったのです。あまりの有難い出来事の連続にお大師様に本当に守っていただいているという今まで感じたことのない大きな安心感を得ました。神戸の息子の引越し手伝いにいっている妻に報告すると妻のほうも亡失した衣文架のくぎが引越しのトラックの荷台から奇跡的に出て来て組み立て可能になったということでした。ありがたいことがつずきました。

2008年4月21日月曜日

昨日護摩のあと、境内にきていた若い夫婦ずれらしきひとから弁天堂の弁天様の前にお祀りしている蛇体人面の神様のことを尋ねられました。これは弁天様が蛇に縁があるということで宇賀神という神様をお祀りしているものでした。辞書によると中世以降信仰された神でサンスクリットの「宇迦耶」から来たと言う説(弁財天三経略疎)と記紀にあるウカノミタマに由来するという説(塵添壒囊抄)があるということです。穀霊神、福神として信仰されていたが比叡山教学に取り入れられ弁才天と習合し、宇賀弁財天として独特の展開を見せると言うことです。鎌倉時代台密穴太流の僧謙忠選の修法書「最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠王修儀」が成立している。宇賀弁財天には多くの経典があり、「仏説最勝宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」「仏説即身貧転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就法」「仏説宇賀神王福徳円満陀羅尼経」が弁財天三部経とよばれまた、「仏説大宇賀功徳弁才天経」「大弁才天陀羅尼経」を加えて弁財天五部経ともよばれた。宇賀弁財天は天女形で八ぴその腕に鉾、輪寶、寶弓、宝珠、剣、棒、鑰、寶箭をもち頭上に老人の顔を持つ白蛇を戴いており眷族として15王子を率いる。帰依すると福徳円満をえるという。宇賀弁財天への信仰は竹生島、厳島、江ノ島、紀伊天川など全国にひろまった。また陰陽道、吉田神道にも取り入れられたとされます。

2008年4月20日日曜日

護摩堂にきた20代の若者に話しかけました。神妙なかおで拝んでいました。般若心経も知っていると言います。「『色即是空、空即是色」はこの世のことは有為転変極まりないものである。しかしその変化してやまないものが同時に宇宙の姿として我々の前に現れているということだ」と話しました。護摩が始まっても1時間以上立って拝んでいました。次は河波さんで十善戒を解説してあげました。最後は若い二人つれです。佛教では自分自身が仏であると説く。すべての人が幸せになるようにと拝めといいました。若者はうなついていました。

2008年4月15日火曜日

昨夜夢をみました。母と歩いていたのですが民家の横を通ると多くのひとが縁側や畳のへやに詰め掛けています。仕切りをしてある部屋も多く、祈祷師が悩み事に答えているのだとわかりました。なぜか「このていどの祈祷師でもこんなに多くの人がつめかけるのだから自分もこういうことをやればもっと多くの人がくるのではないか」と思ったところで目が覚めました。こういうことをせよというお示しだったのでしょうか。

2008年4月14日月曜日

私は「なぜ運命はあるのか?幸不幸はなぜあるのか?」ということに幼いときより疑問をもっていました。
病気や事故などこの世には幸不幸が不平等に訪れている気がしてしょうありません。まず、こういう運命の過酷さをお経はどうあつかっているのでしょうか。
文学上は平家物語「巻1禿髪」に「清盛公仁安三年十一月十一日年五十一にて、病におかされ、存命のために忽に出家入道す。法名は浄海とこそ名のられけれ。其のしるしにや、宿病たちまちにいえて、天命を全うす。」とあったり、幸田露伴「筆と病」に「文学を通して時をうかがえば・・・源氏物語の中にこもれる当時の人の疾病に対する思想を考ふるに疾病はすべて他人の怨恨、もしくはよるところなき鬼物の漂著、若しくは神仏の冥裏の呵責よりきたるものとなせるが如し。・・・ひいて徳川氏の代にいたって猶その余威を有せり・・・」とあります。

お経です。
大智度論巻8「病に二種あり、先世の業病と今世の不摂生病なり。・・・何の因縁をもってか病をうるや。答えていわく先の世にこのんで杖で打ち(鞭杖)ごう掠、閉じ込め(閉繋)をおこない種種に悩ますがゆえに病を得。・・・」
大智度論巻3「無功徳の人は生老病死の大海を渡ることあたわず。少功徳の人もまた渡らず。」
大智度論巻58「若し善男子善女人ありて般若波羅密多を受持しないし正憶念せばついに毒に中りて死せず。兵刃も傷つけず、水火も害せず、乃至四百四病もあたることあたわざるところなり。その宿命、業報を除く。」
弘法大師の「秘蔵宝鑰」に「病は四大不調と鬼と業とにより起こる」とあります。また「妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りを愍んで顕る。この故に聖人の世に出こと必ず慈悲によるなり。・・・抜苦与楽の本は衆生の心病の源を防ぐにしかず。」ともあります。
また「身病多しといえども、その本はただし一つ。いわゆる無明これなり。・・・身病を治する術は、大聖よく説きたまへり。・・・四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業のたたりには呪悔をもってよくけす。薬力は業鬼をしりぞくることあたわず、呪功はつうじて一切の病を治す」(十住心論)
「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(吽字義)
(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、煩悩魔(愚かさのために迷う魔)死魔(死を恐れ、死を願う魔)天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心をおこせば魔は逃げていくということです。)
「陀羅尼の秘法というは方によって薬をあわせ、服食して病を除くがごとし」(性霊集巻9)(密教の修法によれば処方箋どおりに薬をのむように効果がでる。)
華厳経、縁起甚深品には、
 文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに、
「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」
 これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。
「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
 すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。
 たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
 また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。
 眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
 ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
 ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。
 だから、虚妄(こもう)といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない。



医経に「衆生病を得るに十因縁あり。一には久しく座して臥せず、二には食貸すことなし、三には憂愁、四には疲れ、五には淫逸、六には瞋恚、七には大便を忍ぶ、九には上風を制す、十には下風を制す。」
涅槃経に「一切衆生に四毒箭あり。貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢なり。もし病因あらばすなわち病生ずるあり。いわく、寒熱肺病、上気吐逆、皮体しゅうしゅう、その心悶乱、下痢噦咽、小便淋漓、眼耳疼痛、腹背脹満、顚狂乾消、鬼魅に着せらる。このごときの諸病諸仏世尊あることなし。」「二つの因縁あらばすなわち病苦なし。一には一切衆生を憐憫し、二には病者に医薬を給施す。」「もし仏子一切疾病のひとをみてはまさにつねに供養するところ仏のごとくにして異なることなかるべし。八福田(仏、聖人、和尚、阿じゃ利、僧、父、母、病人への供養)のなかに看病福田はこれ第一の福田ならん。」
中国の華厳五祖とされる圭峯宗密は「原人論」に「身を修めることなく悪行にふけるもの(夏の桀王や殷の紂王)が貴人の扱いを受け、倫理道徳の道を守るもの(孔子、孟子)は身分がいやしいとされ、徳行なくも財力に富み(斉の景公)徳があっても貧乏くらし(原憲)逆臣であっても吉祥があり(魏の曹操)大義に殉じても凶運となる(諸葛孔明)仁愛の実践者でも若死にし(顔回)横暴をきわめても長命のものがいる(盗跖)天の道に従順なものが亡び、道理に背反するものが栄えるといった不条理はどうしておこるのか」と書いていますが答えは書いていません。

2008年4月13日日曜日

今日は森巌寺の護摩の日でした。護摩の中で瞑想がかなり深まりました。昨日の善通寺の瞑想のときの余韻が残っていて自分の無始以来の貪、瞋、痴、慢、疑、悪見、身見、辺見などの業がかなり燃えたようにおもいました。炎も非常にありがたくたかくあがりました。

2008年4月12日土曜日

善通寺の声明の会にいってきました。17年19年とお遍路に行って以来3度目です。とくに19年には宿坊に泊めていただきお大師様生誕の地での朝の勤行や戒壇めぐりに感動、またホテル以上の温泉大浴場などの設備にも感激してまた参拝したいとおもっていましたので3度目のご縁をいただき嬉しくてたまりませんでした。朝の勤行では寺の僧侶の方と同じように上の段にあげていただきました。寺の僧侶の方々がくるまで時間があったので少し瞑想しました。すると今までにない境地にすいこまれるようにないました。即ち「自分も壇の下にいる大勢のお遍路さんたちも無始以来の流転を繰り返している存在なのだ。たまたま縁あってこうしてお大師様の生誕の地でこうして朝お参りできているがこれは大変なことなのだ。まさに「人心受けがたし今すでに受く、仏法聞きがたし今すでに聞く、この身今生において度せずんばさらにいずれの生においてかこの身を度せんや」ということなのだ」と思いました。共に仏法を聞き今生で解脱できますようにと祈りました。寺僧の方々と前讃や理趣経をおとなえし三国伝来の錫杖をいただいたあと大勢のお遍路さんに混じって戒壇めぐりをしました。4人のまだ若い女遍路連のあとから真っ暗な戒壇にはいりました。するとこの女遍路の人たちは自然と「南無大師遍照金剛」と唱えだしたのです。わたしも一緒にお唱えしながらこの女遍路の純粋な信仰心におもわず涙ぐんでしまいました。
 あとでお大師様と父君善通公、母君玉依姫三尊を咫尺の距離で拝することができさらに涙が滂沱とながれでました。遍路でいいなあとおもったところはかならずご縁が深くなるものだとおもいました。

2008年4月6日日曜日

今日はいつもの河南さんが2月8日に針供養にときに撮った私の護摩の後姿を寺の住職が後ろからおがんでいる写真をくれました。よくみると私の後姿と住職の後姿それぞれに薄い黄色のもやのようなものがかかっていました。なにかここの仏様がよろこんでおられるしるしのようにみえました。

2008年4月4日金曜日

先日、護国寺で鬱病の人に「欝を治すにはすべての人が幸せになりますようにと祈ることです。」といったがそのあと大師堂のまえのお地蔵様の前で「このお地蔵様は何でも一つのことだけ聞いていただけるのですよ」というとこの鬱病のひとは「すべての人が幸せになりますように」と祈った。正直そのようにいのるとは予想していなかったのでびっくりした。私自身はいつも育ててもらった義母の幸せをいのるだけであったので「うーん、してやられた」と思った。しかしこの欝の人の祈りは思い出しても痛快な祈りではあった。すべての人がしあわせになれば自分も幸せになれるのだ.
また亡父の夢を見た。座敷に祭壇がある。父とおまいりすると三宝にのせてある紙のおまもりみたいなものが大きく動いた。これは「私の下に水子が二体いるがその水子の霊がそうさせている」と私が言った。父に「正確な命日と名前を書いてほしい」と頼んだ。供養する為である。しかし正確な命日は夢の中だったので正確に出てこなかった。夢の中ながら霊気がゾクゾクと伝わってくる祭壇であった。

2008年4月1日火曜日

亡父の夢の伝授

今朝不思議な夢を見ました。生家の山寺の廊下で私が父に「獅子の印はどういうものですか」と聞くと亡父が立ったまま右足と左足を45度外に向け交互に出しながら歩きつつ右手と左手も腹の前に人差し指を立て交互に「しゅるしゅるしゅる」と言いつつ出すしぐさをして「これが獅子の印だ」と教えてくれました。さらにわたしが数畳もあるパラフィン紙にかかれたなにかの次第をひろげて父に教えを乞おうとして目が覚めました。たいへん有難い夢でした。「獅子の印」なるものが本当にあるのかどうか分かりませんがこんなにはっきり夢で伝授されるということがあるものだと有難さで一杯です。亡父も相当あの世で高い位にいるということも分かりました。

2008年3月31日月曜日


護摩堂での質問3
「江戸五色不動といわれますがどういうものですか?」

答え「寛永時代、三代将軍家光が天海僧正の具申により、府内の不動尊を指定し天下泰平、国家安穏を祈願しました。目黒不動 - 瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)• 目白不動 - 金乗院(東京都豊島区高田 )• 目赤不動 - 南谷寺(東京都文京区本駒込)• 目青不動 - 教学院(東京都世田谷区太子堂)• 目黄不動 - 永久寺(東京都台東区三ノ輪) 又は 最勝寺(東京都江戸川区)の五尊をいいます。これは解説書などには五行思想の五色からきていると言われますがそもそも密教では白赤黄青黒の五色を根本正色とします。白は大日如来を、赤は阿閦如来(宝幢如来)、黄色は宝生如来(開敷華如来)、青は阿弥陀如来(無量寿如来)、黒は不空成就如来、(天鼓雷音如来)をあらわします。密壇の上にも五色の蓮華をかざります。天海僧正も江戸の町を曼荼羅にみたてたのかもしれません。」

2008年3月30日日曜日

昨日10名で坂東33観音の1番から4番までを徒歩でおまいりしました。青空、満開の鎌倉の桜の下遍路装束で巡拝する姿は絵のようでした。中には10数年ぶりに1番札所で昔の知人にばったりと会った人もいました。皆さんに「拝むときはつねに「生きとしいけるものすべてが幸せになりますように」と拝んでください。そうすればみなさんと一緒におまいりにきているご先祖にもその念が伝わり霊界での位があがります。」と話しました。

2008年3月28日金曜日

護摩堂での質問その2

質問その2、先日護摩堂で「お不動様はどうして恐ろしいお姿なのですか?」という質問を受けました。簡単に「我々の煩悩を砕き正しい仏道に引き入れるためですよ」と答えましたがすこし詳しく書きます。大日経具縁品には「涅哩底方に不動明王を書く、如來の使者なり。童子形につくる。右に大慧刀印を持し、左に羂索を持す。頂に莎髻あり。髮は屈し左肩に垂して在り。左目は細く閉ず。下齒をもって右邊上脣を嚙み其の左邊の下脣は翻ってやや外に出る。額に雛文あり猶ほ水波狀の如し。石上に坐す。其身卑して充滿肥盛せり。奮怒之勢極忿之形をなす。是その密印摽幟相也。此尊は大日花臺において、久く已に成佛せり。三昧耶本誓願もっての故に、初發大心諸相不備之形を示現す・・・」とあります。(此下位依涅哩底方。畫不動明王。如來使者。作童子形。右持大慧刀印。左持羂索。頂有莎髻。屈髮垂在左肩。細閉左目。以下齒嚙右邊上脣。其左邊下脣。稍翻外出。額有雛文。猶如水波狀。坐於石上。其身卑而充滿肥盛。作奮怒之勢極忿之形。是其密印摽幟相也。此尊於大日花臺。久已成佛。以三昧耶本誓願故。示現初發大心諸相不備之形。為如來僮僕給使執作諸務。所以持利刃以羂索者。承如來忿怒之命。盡欲殺害一切眾生也。羂索是菩提心中四攝方便。以此執繫不降伏者。以利慧刃。斷其業壽無窮之命。令得大空生也。若業壽種除。則戲論語風亦皆息滅。是故緘閉其口。以一目視之意。明如來以等目所觀一切眾生無可宥者。故此尊凡有所為事業。唯為此一事因緣也。鎮其重障盤石。使不復動。成淨菩提心妙高山王。故云安住在盤石也。)仏様のお姿に三種類ありこれを三種の輪身といいます。仏様そのままの位を自性輪身、衆生のそばで共に生死輪廻して下さる位を正法輪身、どうしても背くものを教化する位を教令輪身といいます。お不動様は大日如来の教令輪身です。教令輪身たる不動明王は教えに背くものに対し、そのものの煩悩や悪を粉砕し正しい教えに導くためにみな憤怒の相をしておられるのです。お不動様はサンスクリットでは「アチャラナータ」といいこれはシバ神の別名でもあります。シバ神は人間を殺すおそろしい破壊神でもありました。尊様がこわいのはこのためでもあります。梁塵秘抄でも「不動明王おそろしや。怒れる姿に剣をもち、索を下げ、後ろに火炎、燃え上がるとかやな。前には悪魔を寄せじとて降魔の相。」とあります。昔からお不動様のこわいお姿は人々の注目するところでした。

2008年3月24日月曜日

23日高野山のお墓参りをしました。中の橋霊園の自宅の墓参の後、師僧と兄弟子の奥の院にあるお墓もいつものように掃除しました。師僧と兄弟子の墓をかわるがわる掃除してほぼ終わった頃兄弟子の墓を向いていた妻が突然「ねえ。お顔が・・」といいます。向かいの師僧のお墓を掃除していた私はお化けでも出たのかと恐る恐る後ろを振り向くと妻が「あそこに」と兄弟子の墓石の正面を指します。見ると丸刈りの丸い僧侶の顔が浮き出ていました。「みえる?」ときくものですからぼんやり見えたのですが「ウン」といいました。そのまま片付けてバス停に歩いていきましたが、途中で妻が「観音様が優しいお顔だったでしょう」といいます。こちらは僧の顔に見えたものですから「え」といいますと妻は「優しいお顔の観音様が御礼をされているようにはっきり見えた」といいます。こちらはあまり自信がなかったのでそうだったのか観音様だったのかと妻の霊感に驚きました。妻は師僧の声も聞こえる気がしたといいます。いままで何十回もお墓参りはしてきましたがこんなことははじめてです。不思議なお墓参りでした。

2008年3月22日土曜日

護摩行で受けた質問等を書きます。

質問1、「お不動様はたっておられるお姿と座っておられるお姿と両方あるのですか?」

答え「そうです。お大師様や円珍、円仁など入唐八家といわれる人々の招来したお不動様は初期不動といわれ両目開眼、惣髪、座像です(お大師様招来のものは高雄曼荼羅様といいます。東寺講堂、園城寺、延暦寺等が座像です)。その後安然「不動明王立印儀軌修行次第胎蔵法」淳祐「要尊道場観」等で不動十九相観が大日経入曼荼羅具縁真言品(「頂髪左の肩に垂る」「一目にして諦観す」「安住して磐石にあり」)にあわせてとかれ十九観様というお不動様が作られました。大日経ではお不動様は座像と説かれましたが十九観様の不動としては立像のものが作られました。高野山金剛峰寺の不動、南院の「波切不動」京都青蓮院の青不動などがこれです。」
下北沢森巌寺で毎週日曜日13時より護摩をたいていますが、昨年秋近所の河波さんという人が何気なく写真をとってくれたところ炎が観音さまのお姿になっていました。あまりの有難さに河波さんは知人のやくざにプリントしてあげ更正をすすめたところそのヤクザは直後に120万円のおかねを拾うハプニングがあったそうです。拾ったヤクザは観音様のお姿を拝して真人間になろうという気がしてきて交番にとどけたそうです。これ以降このヤクザさんは福祉のしごとをするようになりすっかり真人間になりつつあるということでした。今日河波さんから電話がありこの霊験を多くの人に広めたいのでプリントして全国の神社仏閣にくばりたいと言ってきました。

2008年3月15日土曜日

 今日護国寺で友人とその親戚の鬱病の中年女性と会いました。友人から会ってアドバイスが欲しいということで会うことにしたものです。護国寺はもう桜が膨らみ始めていてすっかり春でした。その女性の家系は複雑な事情があって先祖供養も行われていないようであったので「どこかの寺で先祖供養を年3回くらいはしなさい」とアドバイスしました。

 そのあと本堂で堂守の僧侶の方に相談するとなんと本堂のご本尊如意輪観音様のまえでその家系の気になっていた先祖のすべての供養をすることが出来ました。何十年も護国寺に通っていますが先祖供養をしていただけるとは思いませんでした。有難いことでした。その女性は感極まって泣き出しました。先祖が喜んでくれたのでしょう。本人はすっきりした顔になりました。鬱病は先祖供養が不足していることが多いという日頃かんじていることが実証された気がしました。

 同時にあとで自宅の仏壇をおがむときは「すべてのひとが幸せになりますように」とお祈りしなさいと教えました。これはお大師様がおっしゃっていることなのです。

この2つができればあとは自然と仏様がよい方に導いてくださいます。

2008年3月2日日曜日

日本の企業は「構造改革」のなのもと組織の精神的退廃、荒廃はきわまっています。毎日のニュースは経営者のお詫びのニュースばかりです。一体どういう経営者なのか探ってみました。1番のサンプルは小泉路線の象徴である郵政事業です。そのトップの西川氏についてこういうこめんとがあります。「竹中氏の推薦がなければ、西川氏が社長になるなどということはなかった。だが、両者は、西川氏が三井住友フィナンシャルグループの社長だった頃は、表面上、そう仲がよかったわけではない。それがなにゆえ親密になったかと言えば、一人の介在者がいた。それが、ゴールドマンサックス社の元CEOで、現ブッシュ政権の財務長官ヘンリー・ポールソンである。  2003年1月15日、西川氏が社長だった三井住友フィナンシャルグループとゴールドマンサックス社は、幅広い業務提携について合意した。当時、これは、西川氏が社内の強い反対を押し切って進めた提携であり、ゴールドマンサックス側にとってきわめて有利な条件となっているのではないか、という報道がなされた。そのなかで、いわゆる「西川案件」と呼ばれる三井住友銀行と親密企業との間の融資や査定の不透明性が指摘され、“不良債権問題”処理のために三井住友FG側で過大な譲歩が行われたのではないか、という疑惑がささやかれた。つまり、西川氏は、組織を犠牲にして、自分だけはのし上がろうとするタイプなのである。  このような風評を持つ西川氏を今回、日本郵政株式会社の初代社長に起用したのは、大方の関係者にとっても、たいへん意外な人事だった。経団連会長の奥田氏でさえ、「この人事はおかしい」と発言していた。実際、生田正治氏を継投させる声もたくさんあった。しかし、先述したように、竹中氏は、小泉元総理が在職中に西川氏を指名した。これは、まさに「虎の威を借る狐」の行為であると同時に、まるで「イタチの最後っ屁」みたいなものだった。それだけに、たいへん“臭い”わけである。つまり、周囲も至って迷惑するのである。  実は、かつてのリップルウッド社による日本長期信用銀行の買い取り、新生銀行の設立、いわゆる外国資本丸儲けの仕掛け人が、この西川氏や竹中氏と関係の深いゴールドマンサックス社だった。日本長期信用銀行の救済のために8兆円の国費が使われた。これに対して、リップルウッド社は、それを、たったの10億円で買い叩いたのである。  政府は、当時(2000年頃)、「日本企業が長銀買収に名乗りを上げなかったから仕方がない」と言った。だが問題は、長銀の売り手も買い手も、その代理人がゴールドマンサックス社だったことだ。つまり、この時も、交渉過程の後出しジャンケンで、「瑕疵担保特約」が結ばれたのである。しかし、最初から「瑕疵担保特約」の存在がわかっていれば、多くの日本企業が買い手の名乗りを上げたに違いない。それを、まんまとアメリカペース、具体的にはゴールドマンサックスの言いなりの形で推し進めたわけである。
 ところで、西川氏は住友銀行頭取時代、「磯田一郎氏の負の遺産が大きすぎて、住友銀行を立て直す経営ができなかった」という意味のコメントを、磯田氏が追放されてから語っている。だが、西川氏自身が、磯田氏の一番の継承者だったのだ。  磯田氏は、「向こう傷(=ヤクザ)を恐れるな!」と大号令をかけたぐらい、強烈な個性の持ち主だった。彼は、イトマン(かつての伊藤萬商事)のトップに、汚れ役の河村良彦を住友銀行から派遣した。この辺りのことは、佐高信(まこと)氏の著述に詳しい。たとえば、『小泉よ、日本を潰す気か!』(KKベストセラーズ)によれば、河村は、何でも手を汚すというタイプの人物だった。磯田氏は、そういう汚れ役を巧みに使っていたという。汚れ役をつくって、成果が出れば汚れ役を切り、最後は自分の手柄にするわけである。  だが、この手法は、磯田氏から多くを学んだ西川善文氏の手法でもあると思うのだ。なぜなら、彼は、かつて追い落としたはずの磯田氏のことを、今でも尊敬しているのだからである。人間の性向は、そう簡単に変わるものではない。それは、西川氏についても言えよう。  佐高氏をはじめ多くの識者が認めるように、現在、金融界の裏側では、銀行のヤクザ化とヤクザの銀行化が進んでいる。事実、最近のベンチャービジネスを支えている投資家のかなりの部分がヤクザだと言われている。この実態は、昨年、NHKのドキュメンタリー番組でも、たいへん鋭く追及されていた。  このスタートとなったのが、かつての住友銀行による“平和相互銀行の吸収合併”である。佐高氏によれば、平和相互銀行というのは、首都圏に多くの支店を持っていた銀行で、別名「ヤミの世界の貯金箱」と呼ばれていた。つまり、同銀行は、ヤミの世界(=ヤクザ)とつながりの深い銀行だった。当時、住友銀行は関西を中心とした、いわゆる地方区の銀行でしかなかった。それゆえ、住友銀行のドンだった会長・磯田一郎は、関西のトップから全国区トップの銀行になる野望の下に平和相互銀行の吸収合併に動いたのである。  そのために、磯田は、ときの大蔵大臣・竹下登に懇請して特別の便宜を図ってもらい、住友銀行に有利な形で、この吸収合併を成功させた。その過程で、竹下氏が高額の屏風を受け取ったとされる「金屏風疑惑」という汚職事件が起こった。1987年のことである。こうしたダーティーな動きの中心人物が磯田一郎である。実は、竹下登が経世会を結成し、田中角栄に反旗を翻した時の財源を提供したのが、磯田一郎である。その彼の下で活躍し、のちに磯田の後継者となったのが、西川善文氏なのである。  住友銀行の脱法的な行動による、日本社会に対する罪は計り知れないほど大きく、この合併事件だけにとどまらない。当時、磯田氏の下に頭取の小松康という人物がいた。まともな頭取なら、みんな、この平和相互銀行との合併に反対する。だが、磯田は、小松の反対を抑えて、合併を強行した。それでも、小松は、少しはヤミの世界との関係を整理しようとした。そして、ヤミとの関係を切り始めた時に起こったのが、住友銀行東京本店糞尿事件である。1987年、お客がいる東京本店に糞尿がばら撒かれたのだ。つまり、それは「オレたちとの関係を切ろうというのか」という脅しだったわけだ。それで、同年、磯田は慌てて小松の首を切った。ヤミの世界との手を切らないで、かえって身内の首を切ってしまったのだ。小松は、任期満了前だったので、前代未聞の人事として騒がれた。病気とか適当な理由をつけていたが、実際はヤミの権力に屈したのである。  佐高氏の言に従えば、これが、「ヤミとは関係を切りません」というメッセージとなり、以後、住友銀行はヤミの世界と手を組んでバブル経済の先頭を切っていった。有名な「地上げ屋」の出現だ。このヤクザ商法が儲かると見た全銀行が住友の後を追った。すべての銀行が「住友銀行化」、つまり「ヤクザ銀行化」していった。これが、あの“バブル(経済)”だった。
 銀行のヤクザ化が拡大したシンボル的な出来事がイトマン事件だ。関西の名門商社だった伊藤萬(のちにイトマンに社名変更)を、住友銀行はグループの傘下にして凄まじい地上げをやりたい放題やった。伊藤萬本体で360億円、住友全体でも3000億円以上の資金が、ヤミ社会に消えて行ったと言われている。イトマン事件が起こって磯田は失脚するが、彼の負の遺産である「銀行のヤクザ化」は残った。  イトマン事件後、公にヤミへの融資ができない銀行は、住宅金融会社(略称、住専)を“トンネル化”して、ヤミ社会に巨額の融資をし続けた。しかし、その融資もだんだんと加熱化し、バブルが崩壊すると、ついにヤミの世界からもカネを取り立てなければならない事態になった。そこで、ヤミ世界との関係を絶とうという動きが起こった。その時に起きたのが、住友銀行名古屋支店長射殺事件である。名古屋支店長がマンションで射殺されたのだ。それで全銀行の頭取たちが慌てた。つまり、“取り立ては止めろ”という話になった。そのため、不良債権をどこから取り立てて穴埋めしようか?ということになった。  それで銀行は、政治献金をしている政治家を動かして、政府のカネ、つまり税金から出させようと考え、それを実行した。これが、1990年代中頃の「住専問題」だ。こうして、平和相互銀行合併に端を発し、住友銀行が“ヤミの世界の貯金箱”になった。これを実現させたのが、磯田―西川ラインである。  イトマン、いや住友銀行がダーティなことばかりやっていた頃に、佐高氏が磯田氏に次のように質問したことがある。「何で、そんなこと(地上げや買い占め)ばかりやっているんですか?」と。すると、磯田氏は、「何で悪いんだ!」と開き直ったという。業績や利益だけ上げていけば何をやってもいいという考えなのだ。理念とか社会的責任とか、そんなものは全部後回しになるわけである。佐高氏も明言するように、そんな環境で育てられた“優等生”が、西川善文氏なのである。  それで、佐高氏も公言しているが、日本郵政に欠かせない社会的責任とか、過疎の問題とか、そんなことは西川氏の頭には全然ないだろう。郵便局の合理化やリストラを強行し、さらに進めて過疎地や地方を殺すと同時に社員をも殺すという、凄まじい経営が進行していくことだろう。事実、それらは、すでに起こっているのだ。  心ある人々が認識しているように、西川氏は、三井住友のトップとして、ある意味、詰め腹を切らされた男だ。つまり、経営不振で引責辞任をした人物である。まさに、彼は、本業で失敗している人なのだ。そのような人が、なぜ日本郵政のトップに居座っているのだろうか? また、周囲もなぜ、それを認めているのだろうか? 西川氏に真の理性と謙虚さがあるのなら、恥ずかしくて、日本郵政社長の要職など、きっと固辞したはずだ。それをしなかったというのなら、彼は、相当、厚顔無恥な男だ。いわゆる、まったくの”恥知らず”である。今の日本には、彼のような手合いが、本当に多くなった。私は、このような人物が退陣しない日本に、真に明るい“将来”はないと思うのだ。  西川氏は、日本郵政の「救世主(=建設者)」だろうか? それとも「破壊者」だろうか? 端的に言って、私は、前者ではなく、あくまで後者だと思う。小泉氏や竹中氏の論理を突き詰めていくと、郵政事業が成功することが目的ではなく、むしろ破綻することが目的だったのではあるまいか。成功するためならば、あくまで生田正治氏をトップにすえるべきだったと思うのだ。本質的に無能で邪悪な西川氏は、トランプで言えば「ジョーカー」みたいなものだ。誰も、ババは引きたくないものである。   彼は、支店長時代、怒ると、よく灰皿を投げたと言われる。だが、そんな短気さばかりでなく、“邪悪さ”を持ったヤクザもどきのトップに仕えなければならない全国の郵便局・社員が、私は、本当に可哀相だと思う。だって、考えてもごらんなさい。誰だって、堅気であれば、ヤクザの下で働きたいなどとは思わないはずだ。私は、そんな許し難い“野蛮な状況”が、現代日本の「郵便事業」の現実なのだと思うのだ。

2008年2月22日金曜日

恨みによる鬱への対処は慈悲心

あるひとが親戚縁者に対する深い恨みに絡みとられ、鬱病となり自縄自縛におちいってそこから抜け出せずにもがいていました。 そこで私は以下のように話しました。



「 心の病の人は他者に対する慈悲心でこころを一杯にすれば治る。とお大師様がおっしゃっています。 「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(吽字義)

(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、

煩悩魔(愚かさのために迷う魔)

死魔(死を恐れ、死を願う魔)

天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)

に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心> がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心で一杯にすれば魔は逃げていくといわれています。我々現代人は人をさばきすぎるのでおかしくなるのです。あらゆる人の幸せを願えつずけることができればばかならず治ります。」

2008年2月11日月曜日

霊鷲山参拝と清掃のこと
平成20年1月5日僧俗12名が集まり、念願の霊鷲山参拝と清掃をおこないました。朝5時に懐中電灯で道を照らしつつビンビサラ王が2500年前釈尊に会いに行くため造ったといわれるビンビサラロードを20分ほど登ると香室跡に出ます。
インド佛蹟巡拝の先人は本願寺派の北畠道龍上人です。62歳で渡印し、1883年[明治16年]64歳でブッダガヤの巡拝に成功し「年を経て、名のみの残りし伽耶の里、今御仏の、跡を訪うかな。」と詠んでいます。つぎは山崎弁栄上人です。1895年ブッダガヤの金剛宝座で世尊成道の暁光を拝し「なかなかに、聞くさえ難き、御仏の、み跡訪う日の、うれしかりけり。」と詠んでいます。1903年(明治36年)には大谷光瑞師が苦難の末、霊鷲山を発見しています。
霊鷲山はお釈迦様がお悟りの後、そのご生涯のほとんどをすごされたところです。

数え切れないほど多くのお経にお釈迦様の説法の場所として出てきます。

妙法蓮華経には「昔お釈迦様は大阿羅漢阿若憍陳如や摩訶迦葉など無数の弟子たちと霊鷲山におられた・・(昔如來於中,與大阿羅漢阿若憍陳如、摩訶迦葉無量等眾・・・)」とあり、
増壱阿含経には「あるとき佛さまは500人の大比丘衆と霊鷲山にいらっしゃった。(一時。佛在羅閱城中。與大比丘眾五百人俱・・・)。」
大方便佛報恩經には「あるとき仏様は2万8000人の大比丘衆とともに霊鷲山にいらっしゃった。(如是我聞。一時佛住王舍城中。與大比丘眾二萬八千人俱・・・)。」とあります。そのほか目に付いたお経をそのまま並べると
阿闍世王問五逆經「聞如是。一時婆伽婆。在羅閱城。與大比丘眾五百人俱・・・」。
無量寿経「我聞如是。一時佛住王舍城中。與大比丘眾萬二千人俱・・・」
阿弥陀経「佛在羅閱祇中。時有摩訶比丘僧萬二千人・・・」
観無量寿経「如是我聞。一時佛在王舍城中。與大比丘眾千二百五十人俱。・・・」などがあります。
般若心経秘鍵ではお大師様が「この三摩地門は佛鷲峯山にいましてじゅ子等のためにこれをといたまえり」とあります。般若心経もここで説かれたとおっしゃっているのです。

大宝積経では霊鷲山では多くの動植物が仏の威力でしあわせに暮らしていると書かれています。大宝積経「如是我聞。一時佛住王舍城。其山高峻嚴麗可觀。持諸雜種猶如大地。眾華卉木悉皆茂盛。其中復有天龍夜叉毘舍闍緊那羅等。常所遊止。復有種種異類諸獸。所謂師子虎狼麒麟象馬熊羆之屬。止住其中。復有無量百千眾鳥。所謂孔雀鸚鵡鴝羅鳥鳧鴈鴛鴦命命等類。依之而住。是諸眾生。以佛威力。不為貪欲瞋癡所惱。不相茹食。共相親愛猶如母子。是山王中多諸雜樹。叢林蓊枝葉繁榮。謂天木香樹。菴摩羅樹。甄叔迦樹。尼俱陀樹。栴檀沈水。如是等樹。無不備有。復有水陸無量雜華。所謂阿提目多華。瞻婆香華。波吒羅華。婆師迦華。蘇曼那華。由提迦華。優鉢羅華。波頭摩華。俱物頭華。芬陀利華。迦羅娑華。摩訶迦羅娑華。如是等類諸雜名華。光飾山王處處充遍。是山王中常於夜半興大密雲。輕雷細雨。從初至末漸遍其山。八功德水流滋普洽。・・・」)

暗い中、お釈迦様の説法された香室跡で前賛、観音経3巻、般若心経7巻をあげました。みなのお経の声がそろってありがたく霊鷲山の未明の空に響きました。

そういえば四国八十八所にも霊鷲山ゆかりの寺があります。1番竺和山霊山寺はお大師様が霊夢により釈迦如来を本尊とし、天竺(インド)の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付けられたといいます。四国20番は霊鷲山鶴林寺といいます。お大師様もお釈迦様の霊蹟を慕っておられたことが偲ばれます。38番清滝寺におられた大師の高弟真如法親王は天竺を目指し羅越国で消息を絶たれています。明恵上人も天竺へ渡ろうとされが果たせませんでした。ここは古来多くの高僧が渡来を夢見て果たせなかった地でもあるのです。


有難くてお勤めの後半は涙がとめどもなくながれお経が読めなくなりました。
そのあと日ものぼりいよいよ清掃に取り掛かりました。引率の浅井證善師の書「真言宗の清規」に「密宗所学有部律清規」では「地を掃うに五種の功徳あり。一には自心清浄、二には他心をして浄からしむ。三には諸天歓喜す。四には端正業を植、五にはまさに天上に生ずべし。」とあると紹介されています。



現地で雇った人30人とともに2日がかりで霊鷲山の上から下まできれいにしました。道路からはずれた谷間や祠、橋の下まで茨に刺されつつゴミをひろいました。英語や中国語韓国語などの書かれたペットボトル、お菓子の包装紙など無数に落ちていました。日本語の書かれたものは見かけませんでした。片っ端から日本から持参したゴミ袋にいれていきました。何百枚ものゴミ袋はどんどん一杯になります。おまいりにきていた中国の尼さんなどは我々にお布施をくれました。現地の新聞も取材におとずれていたようです。いずれにせよお釈迦さまの霊地を掃除させていただけるなど思いもよらないことでしたので掃除しながら嬉しくて夢ではないかと度々思いました。はじめてあこがれの佛蹟を拝せただけでもうれしいくてしかたないのです。そのうえ清掃までさせていただけるなど数ヶ月年前まで思いもしませんでした。ここ霊鷲山はお釈迦様に導いていただく浄土(霊山浄土)だとされているところです。なにか知らないうちによほど功徳を積んでいたのでしょうか。それとも先祖が一緒に霊鷲山にお参りしたかったのかも知れません。