2008年2月22日金曜日

恨みによる鬱への対処は慈悲心

あるひとが親戚縁者に対する深い恨みに絡みとられ、鬱病となり自縄自縛におちいってそこから抜け出せずにもがいていました。 そこで私は以下のように話しました。



「 心の病の人は他者に対する慈悲心でこころを一杯にすれば治る。とお大師様がおっしゃっています。 「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(吽字義)

(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、

煩悩魔(愚かさのために迷う魔)

死魔(死を恐れ、死を願う魔)

天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)

に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心> がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心で一杯にすれば魔は逃げていくといわれています。我々現代人は人をさばきすぎるのでおかしくなるのです。あらゆる人の幸せを願えつずけることができればばかならず治ります。」

2008年2月11日月曜日

霊鷲山参拝と清掃のこと
平成20年1月5日僧俗12名が集まり、念願の霊鷲山参拝と清掃をおこないました。朝5時に懐中電灯で道を照らしつつビンビサラ王が2500年前釈尊に会いに行くため造ったといわれるビンビサラロードを20分ほど登ると香室跡に出ます。
インド佛蹟巡拝の先人は本願寺派の北畠道龍上人です。62歳で渡印し、1883年[明治16年]64歳でブッダガヤの巡拝に成功し「年を経て、名のみの残りし伽耶の里、今御仏の、跡を訪うかな。」と詠んでいます。つぎは山崎弁栄上人です。1895年ブッダガヤの金剛宝座で世尊成道の暁光を拝し「なかなかに、聞くさえ難き、御仏の、み跡訪う日の、うれしかりけり。」と詠んでいます。1903年(明治36年)には大谷光瑞師が苦難の末、霊鷲山を発見しています。
霊鷲山はお釈迦様がお悟りの後、そのご生涯のほとんどをすごされたところです。

数え切れないほど多くのお経にお釈迦様の説法の場所として出てきます。

妙法蓮華経には「昔お釈迦様は大阿羅漢阿若憍陳如や摩訶迦葉など無数の弟子たちと霊鷲山におられた・・(昔如來於中,與大阿羅漢阿若憍陳如、摩訶迦葉無量等眾・・・)」とあり、
増壱阿含経には「あるとき佛さまは500人の大比丘衆と霊鷲山にいらっしゃった。(一時。佛在羅閱城中。與大比丘眾五百人俱・・・)。」
大方便佛報恩經には「あるとき仏様は2万8000人の大比丘衆とともに霊鷲山にいらっしゃった。(如是我聞。一時佛住王舍城中。與大比丘眾二萬八千人俱・・・)。」とあります。そのほか目に付いたお経をそのまま並べると
阿闍世王問五逆經「聞如是。一時婆伽婆。在羅閱城。與大比丘眾五百人俱・・・」。
無量寿経「我聞如是。一時佛住王舍城中。與大比丘眾萬二千人俱・・・」
阿弥陀経「佛在羅閱祇中。時有摩訶比丘僧萬二千人・・・」
観無量寿経「如是我聞。一時佛在王舍城中。與大比丘眾千二百五十人俱。・・・」などがあります。
般若心経秘鍵ではお大師様が「この三摩地門は佛鷲峯山にいましてじゅ子等のためにこれをといたまえり」とあります。般若心経もここで説かれたとおっしゃっているのです。

大宝積経では霊鷲山では多くの動植物が仏の威力でしあわせに暮らしていると書かれています。大宝積経「如是我聞。一時佛住王舍城。其山高峻嚴麗可觀。持諸雜種猶如大地。眾華卉木悉皆茂盛。其中復有天龍夜叉毘舍闍緊那羅等。常所遊止。復有種種異類諸獸。所謂師子虎狼麒麟象馬熊羆之屬。止住其中。復有無量百千眾鳥。所謂孔雀鸚鵡鴝羅鳥鳧鴈鴛鴦命命等類。依之而住。是諸眾生。以佛威力。不為貪欲瞋癡所惱。不相茹食。共相親愛猶如母子。是山王中多諸雜樹。叢林蓊枝葉繁榮。謂天木香樹。菴摩羅樹。甄叔迦樹。尼俱陀樹。栴檀沈水。如是等樹。無不備有。復有水陸無量雜華。所謂阿提目多華。瞻婆香華。波吒羅華。婆師迦華。蘇曼那華。由提迦華。優鉢羅華。波頭摩華。俱物頭華。芬陀利華。迦羅娑華。摩訶迦羅娑華。如是等類諸雜名華。光飾山王處處充遍。是山王中常於夜半興大密雲。輕雷細雨。從初至末漸遍其山。八功德水流滋普洽。・・・」)

暗い中、お釈迦様の説法された香室跡で前賛、観音経3巻、般若心経7巻をあげました。みなのお経の声がそろってありがたく霊鷲山の未明の空に響きました。

そういえば四国八十八所にも霊鷲山ゆかりの寺があります。1番竺和山霊山寺はお大師様が霊夢により釈迦如来を本尊とし、天竺(インド)の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付けられたといいます。四国20番は霊鷲山鶴林寺といいます。お大師様もお釈迦様の霊蹟を慕っておられたことが偲ばれます。38番清滝寺におられた大師の高弟真如法親王は天竺を目指し羅越国で消息を絶たれています。明恵上人も天竺へ渡ろうとされが果たせませんでした。ここは古来多くの高僧が渡来を夢見て果たせなかった地でもあるのです。


有難くてお勤めの後半は涙がとめどもなくながれお経が読めなくなりました。
そのあと日ものぼりいよいよ清掃に取り掛かりました。引率の浅井證善師の書「真言宗の清規」に「密宗所学有部律清規」では「地を掃うに五種の功徳あり。一には自心清浄、二には他心をして浄からしむ。三には諸天歓喜す。四には端正業を植、五にはまさに天上に生ずべし。」とあると紹介されています。



現地で雇った人30人とともに2日がかりで霊鷲山の上から下まできれいにしました。道路からはずれた谷間や祠、橋の下まで茨に刺されつつゴミをひろいました。英語や中国語韓国語などの書かれたペットボトル、お菓子の包装紙など無数に落ちていました。日本語の書かれたものは見かけませんでした。片っ端から日本から持参したゴミ袋にいれていきました。何百枚ものゴミ袋はどんどん一杯になります。おまいりにきていた中国の尼さんなどは我々にお布施をくれました。現地の新聞も取材におとずれていたようです。いずれにせよお釈迦さまの霊地を掃除させていただけるなど思いもよらないことでしたので掃除しながら嬉しくて夢ではないかと度々思いました。はじめてあこがれの佛蹟を拝せただけでもうれしいくてしかたないのです。そのうえ清掃までさせていただけるなど数ヶ月年前まで思いもしませんでした。ここ霊鷲山はお釈迦様に導いていただく浄土(霊山浄土)だとされているところです。なにか知らないうちによほど功徳を積んでいたのでしょうか。それとも先祖が一緒に霊鷲山にお参りしたかったのかも知れません。