2008年4月14日月曜日

私は「なぜ運命はあるのか?幸不幸はなぜあるのか?」ということに幼いときより疑問をもっていました。
病気や事故などこの世には幸不幸が不平等に訪れている気がしてしょうありません。まず、こういう運命の過酷さをお経はどうあつかっているのでしょうか。
文学上は平家物語「巻1禿髪」に「清盛公仁安三年十一月十一日年五十一にて、病におかされ、存命のために忽に出家入道す。法名は浄海とこそ名のられけれ。其のしるしにや、宿病たちまちにいえて、天命を全うす。」とあったり、幸田露伴「筆と病」に「文学を通して時をうかがえば・・・源氏物語の中にこもれる当時の人の疾病に対する思想を考ふるに疾病はすべて他人の怨恨、もしくはよるところなき鬼物の漂著、若しくは神仏の冥裏の呵責よりきたるものとなせるが如し。・・・ひいて徳川氏の代にいたって猶その余威を有せり・・・」とあります。

お経です。
大智度論巻8「病に二種あり、先世の業病と今世の不摂生病なり。・・・何の因縁をもってか病をうるや。答えていわく先の世にこのんで杖で打ち(鞭杖)ごう掠、閉じ込め(閉繋)をおこない種種に悩ますがゆえに病を得。・・・」
大智度論巻3「無功徳の人は生老病死の大海を渡ることあたわず。少功徳の人もまた渡らず。」
大智度論巻58「若し善男子善女人ありて般若波羅密多を受持しないし正憶念せばついに毒に中りて死せず。兵刃も傷つけず、水火も害せず、乃至四百四病もあたることあたわざるところなり。その宿命、業報を除く。」
弘法大師の「秘蔵宝鑰」に「病は四大不調と鬼と業とにより起こる」とあります。また「妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りを愍んで顕る。この故に聖人の世に出こと必ず慈悲によるなり。・・・抜苦与楽の本は衆生の心病の源を防ぐにしかず。」ともあります。
また「身病多しといえども、その本はただし一つ。いわゆる無明これなり。・・・身病を治する術は、大聖よく説きたまへり。・・・四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業のたたりには呪悔をもってよくけす。薬力は業鬼をしりぞくることあたわず、呪功はつうじて一切の病を治す」(十住心論)
「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(吽字義)
(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、煩悩魔(愚かさのために迷う魔)死魔(死を恐れ、死を願う魔)天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心をおこせば魔は逃げていくということです。)
「陀羅尼の秘法というは方によって薬をあわせ、服食して病を除くがごとし」(性霊集巻9)(密教の修法によれば処方箋どおりに薬をのむように効果がでる。)
華厳経、縁起甚深品には、
 文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに、
「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」
 これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。
「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
 すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。
 たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
 また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。
 眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
 ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
 ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。
 だから、虚妄(こもう)といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない。



医経に「衆生病を得るに十因縁あり。一には久しく座して臥せず、二には食貸すことなし、三には憂愁、四には疲れ、五には淫逸、六には瞋恚、七には大便を忍ぶ、九には上風を制す、十には下風を制す。」
涅槃経に「一切衆生に四毒箭あり。貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢なり。もし病因あらばすなわち病生ずるあり。いわく、寒熱肺病、上気吐逆、皮体しゅうしゅう、その心悶乱、下痢噦咽、小便淋漓、眼耳疼痛、腹背脹満、顚狂乾消、鬼魅に着せらる。このごときの諸病諸仏世尊あることなし。」「二つの因縁あらばすなわち病苦なし。一には一切衆生を憐憫し、二には病者に医薬を給施す。」「もし仏子一切疾病のひとをみてはまさにつねに供養するところ仏のごとくにして異なることなかるべし。八福田(仏、聖人、和尚、阿じゃ利、僧、父、母、病人への供養)のなかに看病福田はこれ第一の福田ならん。」
中国の華厳五祖とされる圭峯宗密は「原人論」に「身を修めることなく悪行にふけるもの(夏の桀王や殷の紂王)が貴人の扱いを受け、倫理道徳の道を守るもの(孔子、孟子)は身分がいやしいとされ、徳行なくも財力に富み(斉の景公)徳があっても貧乏くらし(原憲)逆臣であっても吉祥があり(魏の曹操)大義に殉じても凶運となる(諸葛孔明)仁愛の実践者でも若死にし(顔回)横暴をきわめても長命のものがいる(盗跖)天の道に従順なものが亡び、道理に背反するものが栄えるといった不条理はどうしておこるのか」と書いていますが答えは書いていません。

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