2009年5月24日日曜日

不思議な縁

きょうしばらくみえなかった近所の主婦の方が護摩に参加しました。このかたは2年ほど前私の護摩の炎の写真を突然とりそれが観音様のお姿になっていたということがあった方です。その方のいうにはそのとき私は「これは長谷寺の十一面観音様です」といったのでそのとき以来さがしていたのだが先日やっと長谷寺の観音様の写真が入手できこれをみるとやはり観音様の宝冠の正面の観音さまがちょうど合掌をされていて私の護摩の炎の観音さまと同じだったと言って写真を見せてくれました。やはりそっくりでした。私がそんなことをいった覚えはないのですが、いずれにせよ有難いことでした。

2009年5月17日日曜日

護摩の説法

今日は予感どおり新しいひとが護摩に加わりました。護摩の後佛器磨きを手伝ってもらいながらこのような話をしました。

「宇宙はそれ自体エンドレスに変化している。量子力学によると物質の究極の構成要素の素粒子もある瞬間は消えて波動になっている。まさに一瞬たりともおなじ状態はない。そこから般若心経の不増不減、不垢不浄などがでてくる。我々は宇宙開闢以来エンドレスな変化を繰り返してきている。ということは我々はすべてのものと互いに交じり合っているということ。我々の中に全てがあり、全てに中にわれわれの要素もあるということになる。したがって全てのものと繋がっているのだから因果応報となり善因楽果、悪因苦果ということも出てくる。」

遍路の夢

昨夜夢をみました。お遍路をしていて道中で巨大な2m以上の遍路が弊衣破帽で歩いていてそのひとをよけて更に歩くと僧形の遍路がおおく歩いているのに出会いました。それだけなのですが不思議な夢でした。

2009年5月13日水曜日

祓詞

祓詞(はらへことば)
「掛(かけ)まくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時(とき)に成(な)りませる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち)諸諸(もろもろ)の禍事罪穢有(まがごとつみけがれあ)らむをば祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)へと白(まを)す事(こと)を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)も白(まを)す」を毎朝となえています。最近では毎日の食事や身の回りの自然など神様のご恩によるものなのになぜ今まで分からずにうかうか過ごしてきたのだろうかと思うようになりました。

2009年5月11日月曜日

大寺院の力

今日ひさしぶりに川崎大師にお参りに行きました。なにか京浜急行に乗っているときから
非常に明るい気分になりました。大師に着くとよりその感は強まりました。いままで気がつかなかったのですがここは何か特別の力をもっています。愚息のことを拝むといままでめったにかかってきたことのない愚息から1時間後に電話がかかってきました。山本玄法老師は「寺には護法善神がいて守っているのじゃ」とおっしゃいましたがその通りであると思いました。寺のみでなく神社もおなじでしょう。

2009年5月10日日曜日

護摩の雰囲気

今日護摩のあとでいつもみえる若い方が「今日の護摩の雰囲気はいつもと違っていました」といいます。

「どう違いますか」と聞くと

「いつもは此の季節新緑のなかでいかにも寺に来ていると言う雰囲気ですがきょうは厳粛で仏様がそこにおられるという雰囲気でした」といいます。

毎日修法をし、瞑想をしているからそういう雰囲気になったのでしょうか。

それとも先日来瞑想のなかで「自分も山川草木も一切が如来の元から来ている」ということが実感できたのでそのせいでしょうか。

いずれにせよ昔田原先生がいわれた「行は修したら修しただけのことはある」ということばを思い出します。

2009年5月9日土曜日

観世音とは汝ら庶人これなり

白隠禅師は「「観世音とは汝ら庶人これなり」と喝破しました。今日夕方瞑想しているとき我々も山川草木も宇宙の摂理の元に存在し滅していくわけで如来であり如去であり観音さまであり仏様であるのだと実感しました。

御成敗式目

御成敗式目に「j神は人の敬いによりてその威を増し、人は神の徳によりて運を沿う」とあるそうです。昔山梨の神社で此の言葉を見て以来出典が分からずに気になっていたのですが10年ぶりに分かりました。

山川草木には神霊が宿っていること

慈雲尊者の「人となる道」に「およそ物あれば能あり、能あれば徳あり。世間事物の中、楽器は工匠の手より出で来るものなれどもその妙物は必ずその徳備わるなり。刀剣はヵ鍛冶が手により造立せるももなれども、その逸物にいたりてはその徳あるなり。まして山川草木は広大なる物なればかならず神霊あるなり。地水火風はさらに広大なれば四大神その徳著しきなり。五穀は人民を利する功大なれば必ず神霊あるなり。天はさらに尊尚なれば天神その徳あり。日月星辰みな神霊あり。有徳の君、有功の臣みな神霊あるべし。」とあります。

見果てぬ夢「衆生無辺誓願度」

嶋野榮道師「禅僧ひとりニューヨークに立つ、愛語の力」に感動的な場面があリます。嶋野師が先輩千崎如玄師が永らく預かって世話をしていた精神障害児を施設に何十年ぶりかで訪ねたときその児が「しゅじょうむへんしぇいがんど」とだけ言えるようになっていたというのです。千崎師が子守唄代わりに何度もその児におしえたのでしょう。「これが祈りの力というものです。・・ジミーは私を千崎師と勘違いしたようでした。私を見るなり、延びない手を一生懸命伸ばしてよだれをたらしながらなにかをしゃべりかけてきました。耳を近つけてきいていると最後に「しぇいがんど」というのが聞こえました。「誓願度」のつもりでしょう。その言葉を聴いた途端全身に鳥肌が立ちました。それまで私自身何千回何万回「衆生無辺誓願度」と唱えてきたか分かりません。しかしあのときのジミーの口からでた「しぇいがんど」くらいズーンと響くものはあとにも先にもきいたことがありません。」と書いてありました。

精神障害児ジミーはまさに代受苦の菩薩として衆生の苦を引き受けていることを「しぇいがんど」で表しているのではないかとおもいました。

定住観を修しました。

「思え自心の中に満月輪あり、その上に阿字あり、阿字本不生不可得なるが故に心の自性本不生不可得なり、心不可得なるが故に衆生不可得なり、心の自性本不生不可得なるが故に衆生の自性本不生不可得なり、衆生の自性本不生不可得なるが故に諸佛の境涯本不生不可得なり、諸佛の境涯本不生不可得なるが故に佛界、衆生界無二平等なり、佛界、衆生界無二平等なるがゆえに自身即ち本尊、本尊即ち自心なり。」というものです。やっと分かりかけてきました。

2009年5月4日月曜日

高野山上での不思議な出会い

5月1日高野山上刈萱堂の前あたりでとつぜん自分の名を呼ばれた気がしました。自分の名など山上で知っている人はいないのだから気の所為だと思い、なおも歩いていくとやはり後ろから自分の名を呼んでいます。ふりかえるとかなり後方で自家用車の窓からだれか顔をだしてこちらを見ています。人違いで呼んだのだろうとなおも戻っていくとなんとその人は何十年も行を指導していただいている先生だったのです。先生は奈良に住んでいるのでそうそう頻繁に高野山に来る事はないのですがこの日は大峯山にいく途中だったということでした。私の後姿を車の中でみて呼びかけてくださったのです。おかげで夏からの行の相談まで出来ました。先生には昨年四国の三角寺でも遍路途中でばったり出会っており二回目の迴会です。ふしぎな有難いことでした。

衆生の神聖さ

高野山の結縁灌頂で庭儀曼荼羅供のお練の高僧達をおおくのお遍路装束の善男善女たちが合掌して見守りました。これらの人たちを見て自分も思わず涙が出そうになりました。人々の純粋な信仰心のなかにこそ仏様がいらっしゃるのだと思わせられました。

結縁灌頂のありがたさ

5月3日高野山で結縁灌頂を受けてきました。入壇番号は23で父の命日とおなじでした。やはり父が守ってくれていたのだと思いを新たにしました。

宿坊の夢

5月1日、高野山の宿坊で夢をみました。夢というよりも本当に現実と境目のないような感覚でした。昔の学僧の名をそこの若住職と私でいろいろと数えあげていると言うものでした。