20.3.18産経新聞「正論」に村上和雄筑波大名誉教授の「全ての命は繋がっている」との論文が掲載されています。「昨年11月京都大学の山中伸弥教授らによって新しいヒト万能細胞(ips細胞)の作成成功の快挙があった。・・・ここで忘れて成らないことがある。細胞のコピーは作れるが細胞そのものはもとからtるくることはできないのである。これはたった一つの細胞ですら生きていることがいかにすごいかということである。細胞1個が生きているだけでもすごいのに私たちの身体では60兆の細胞が毎日大きな争いも無く助け合ってみごとに生きている。・・・ヒトには数百種類もの細胞がそれぞれ独自の役割を演じながら他の細胞を助け臓器の働きを支えている。臓器はそれぞれ独自の働きを演じながら個体を生かしている。・・21世紀にはこの利他的な遺伝子と名付毛手よいものの正体の一部が解明できると思っている。1953年遺伝子の本体がDNAという物質であることその構造が解明された。そして驚くべきことが明らかになった。それは細菌をふくむ微生物、昆虫、植物、動物、人間などすべての生き物は「A・T・C・G」と呼ばれる同じ遺伝子暗号をつかっていることが発見されたのである。これは地球上のあらゆる生きとし生けるものは「A・T・C・G」を含むDNAで繋がっていることを意味している。・・私は生命科学の研究に50年以上従事してきたがつくずく感心していることがある。それは細胞核中の極微の空間に万巻の書物に匹敵する遺伝子情報を書き込み一刻の休みも無く働かせている大自然の素晴らしさである。この大自然の働きをサムシンググレートと表現してきた。地球上のすべての生き物は命の元であるサムシンググレートに繋がっていてお互いに協力しあって地球生命体を構成しているのである。」
これは心についても同じです。パスカルはパンセで「人間は極大も極小も知りえない」「この無限空間の永遠の沈黙は恐ろしい」さらに『神を知ることから神を愛することがなんてまあ遠いことだろう』といいました。真理に遠い人はみなこのように思います。ぱすかるは正直な人です。
しかし一旦、われの心は先祖の心であり、あらゆる生きとし生けるものの心である。さらには仏の心でもあるとわかればそのような考えは吹っ飛びます。
いのちも心もすべておおきなひとつのものなのです。
2008年5月24日土曜日
2008年5月16日金曜日
2008年5月5日月曜日
四国遍路でお大師様に会った
4月末から四国を逆打ちしました。5月4日朝7時前雲辺寺手前で突然墨染めの衣を着て赤い錫杖、菅笠の方に出会いました。「ようおまいり」といってくださってすれ違いました。絵に描いたお大師様のとおりのお姿で「うるう年に逆打ちするとお大師様にお会いできるというのはこのことかと鳥肌が立ちました。そのあと雲辺寺の下で軽四輪がよってきました。乗り込むと三角寺の麓まで接待してくれました。運転していた中年の農家の人は「われわれはお遍路さんをみるとお大師様と思っているのでこうしてお接待させていただくのが嬉しいので遠慮されなくていいですよ」といってくれました。三角寺では本堂、大師堂といつものごとく縁に座して理趣経を上げていると縁の下に僧侶の一行がきて私をおがむようにうしろから般若心経をあげます。あまりのもったいなさに涙をながしておりてくるとそこにはなんと高野山の加行以来指導いただいている浅井僧正がいたのです。連休で俗人のかたを数十名バスでおまいりにつれてきていたのでした。車のお接待がなければ浅井僧正にもお会いできなかったところでした。そのあと庫裏の縁で昼食をとっていると隣に座った美人の女遍路がバナナをくれました。お大師様にお会いしたはなしをすると「それはお大師様に違いありません」といって泣き出しました。なんという信仰深いひとなのかと子供の結婚相手にどうかと勝手に思い定めてて納札を交わしました。あとで母に報告するとなんとここ三角寺の先住は父と仲のよい修行仲間だったということでした。さらに三角寺のご本尊は生家の寺のご本尊と同じ十一面観音様だったのです。あまりの有難い出来事の連続にお大師様に本当に守っていただいているという今まで感じたことのない大きな安心感を得ました。神戸の息子の引越し手伝いにいっている妻に報告すると妻のほうも亡失した衣文架のくぎが引越しのトラックの荷台から奇跡的に出て来て組み立て可能になったということでした。ありがたいことがつずきました。
2008年4月21日月曜日
昨日護摩のあと、境内にきていた若い夫婦ずれらしきひとから弁天堂の弁天様の前にお祀りしている蛇体人面の神様のことを尋ねられました。これは弁天様が蛇に縁があるということで宇賀神という神様をお祀りしているものでした。辞書によると中世以降信仰された神でサンスクリットの「宇迦耶」から来たと言う説(弁財天三経略疎)と記紀にあるウカノミタマに由来するという説(塵添壒囊抄)があるということです。穀霊神、福神として信仰されていたが比叡山教学に取り入れられ弁才天と習合し、宇賀弁財天として独特の展開を見せると言うことです。鎌倉時代台密穴太流の僧謙忠選の修法書「最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠王修儀」が成立している。宇賀弁財天には多くの経典があり、「仏説最勝宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」「仏説即身貧転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就法」「仏説宇賀神王福徳円満陀羅尼経」が弁財天三部経とよばれまた、「仏説大宇賀功徳弁才天経」「大弁才天陀羅尼経」を加えて弁財天五部経ともよばれた。宇賀弁財天は天女形で八ぴその腕に鉾、輪寶、寶弓、宝珠、剣、棒、鑰、寶箭をもち頭上に老人の顔を持つ白蛇を戴いており眷族として15王子を率いる。帰依すると福徳円満をえるという。宇賀弁財天への信仰は竹生島、厳島、江ノ島、紀伊天川など全国にひろまった。また陰陽道、吉田神道にも取り入れられたとされます。
2008年4月20日日曜日
2008年4月15日火曜日
2008年4月14日月曜日
私は「なぜ運命はあるのか?幸不幸はなぜあるのか?」ということに幼いときより疑問をもっていました。
病気や事故などこの世には幸不幸が不平等に訪れている気がしてしょうありません。まず、こういう運命の過酷さをお経はどうあつかっているのでしょうか。
文学上は平家物語「巻1禿髪」に「清盛公仁安三年十一月十一日年五十一にて、病におかされ、存命のために忽に出家入道す。法名は浄海とこそ名のられけれ。其のしるしにや、宿病たちまちにいえて、天命を全うす。」とあったり、幸田露伴「筆と病」に「文学を通して時をうかがえば・・・源氏物語の中にこもれる当時の人の疾病に対する思想を考ふるに疾病はすべて他人の怨恨、もしくはよるところなき鬼物の漂著、若しくは神仏の冥裏の呵責よりきたるものとなせるが如し。・・・ひいて徳川氏の代にいたって猶その余威を有せり・・・」とあります。
お経です。
大智度論巻8「病に二種あり、先世の業病と今世の不摂生病なり。・・・何の因縁をもってか病をうるや。答えていわく先の世にこのんで杖で打ち(鞭杖)ごう掠、閉じ込め(閉繋)をおこない種種に悩ますがゆえに病を得。・・・」
大智度論巻3「無功徳の人は生老病死の大海を渡ることあたわず。少功徳の人もまた渡らず。」
大智度論巻58「若し善男子善女人ありて般若波羅密多を受持しないし正憶念せばついに毒に中りて死せず。兵刃も傷つけず、水火も害せず、乃至四百四病もあたることあたわざるところなり。その宿命、業報を除く。」
弘法大師の「秘蔵宝鑰」に「病は四大不調と鬼と業とにより起こる」とあります。また「妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りを愍んで顕る。この故に聖人の世に出こと必ず慈悲によるなり。・・・抜苦与楽の本は衆生の心病の源を防ぐにしかず。」ともあります。
また「身病多しといえども、その本はただし一つ。いわゆる無明これなり。・・・身病を治する術は、大聖よく説きたまへり。・・・四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業のたたりには呪悔をもってよくけす。薬力は業鬼をしりぞくることあたわず、呪功はつうじて一切の病を治す」(十住心論)
「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(吽字義)
(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、煩悩魔(愚かさのために迷う魔)死魔(死を恐れ、死を願う魔)天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心をおこせば魔は逃げていくということです。)
「陀羅尼の秘法というは方によって薬をあわせ、服食して病を除くがごとし」(性霊集巻9)(密教の修法によれば処方箋どおりに薬をのむように効果がでる。)
華厳経、縁起甚深品には、
文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに、
「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」
これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。
「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。
たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。
眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。
だから、虚妄(こもう)といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない。
医経に「衆生病を得るに十因縁あり。一には久しく座して臥せず、二には食貸すことなし、三には憂愁、四には疲れ、五には淫逸、六には瞋恚、七には大便を忍ぶ、九には上風を制す、十には下風を制す。」
涅槃経に「一切衆生に四毒箭あり。貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢なり。もし病因あらばすなわち病生ずるあり。いわく、寒熱肺病、上気吐逆、皮体しゅうしゅう、その心悶乱、下痢噦咽、小便淋漓、眼耳疼痛、腹背脹満、顚狂乾消、鬼魅に着せらる。このごときの諸病諸仏世尊あることなし。」「二つの因縁あらばすなわち病苦なし。一には一切衆生を憐憫し、二には病者に医薬を給施す。」「もし仏子一切疾病のひとをみてはまさにつねに供養するところ仏のごとくにして異なることなかるべし。八福田(仏、聖人、和尚、阿じゃ利、僧、父、母、病人への供養)のなかに看病福田はこれ第一の福田ならん。」
中国の華厳五祖とされる圭峯宗密は「原人論」に「身を修めることなく悪行にふけるもの(夏の桀王や殷の紂王)が貴人の扱いを受け、倫理道徳の道を守るもの(孔子、孟子)は身分がいやしいとされ、徳行なくも財力に富み(斉の景公)徳があっても貧乏くらし(原憲)逆臣であっても吉祥があり(魏の曹操)大義に殉じても凶運となる(諸葛孔明)仁愛の実践者でも若死にし(顔回)横暴をきわめても長命のものがいる(盗跖)天の道に従順なものが亡び、道理に背反するものが栄えるといった不条理はどうしておこるのか」と書いていますが答えは書いていません。
病気や事故などこの世には幸不幸が不平等に訪れている気がしてしょうありません。まず、こういう運命の過酷さをお経はどうあつかっているのでしょうか。
文学上は平家物語「巻1禿髪」に「清盛公仁安三年十一月十一日年五十一にて、病におかされ、存命のために忽に出家入道す。法名は浄海とこそ名のられけれ。其のしるしにや、宿病たちまちにいえて、天命を全うす。」とあったり、幸田露伴「筆と病」に「文学を通して時をうかがえば・・・源氏物語の中にこもれる当時の人の疾病に対する思想を考ふるに疾病はすべて他人の怨恨、もしくはよるところなき鬼物の漂著、若しくは神仏の冥裏の呵責よりきたるものとなせるが如し。・・・ひいて徳川氏の代にいたって猶その余威を有せり・・・」とあります。
お経です。
大智度論巻8「病に二種あり、先世の業病と今世の不摂生病なり。・・・何の因縁をもってか病をうるや。答えていわく先の世にこのんで杖で打ち(鞭杖)ごう掠、閉じ込め(閉繋)をおこない種種に悩ますがゆえに病を得。・・・」
大智度論巻3「無功徳の人は生老病死の大海を渡ることあたわず。少功徳の人もまた渡らず。」
大智度論巻58「若し善男子善女人ありて般若波羅密多を受持しないし正憶念せばついに毒に中りて死せず。兵刃も傷つけず、水火も害せず、乃至四百四病もあたることあたわざるところなり。その宿命、業報を除く。」
弘法大師の「秘蔵宝鑰」に「病は四大不調と鬼と業とにより起こる」とあります。また「妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りを愍んで顕る。この故に聖人の世に出こと必ず慈悲によるなり。・・・抜苦与楽の本は衆生の心病の源を防ぐにしかず。」ともあります。
また「身病多しといえども、その本はただし一つ。いわゆる無明これなり。・・・身病を治する術は、大聖よく説きたまへり。・・・四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業のたたりには呪悔をもってよくけす。薬力は業鬼をしりぞくることあたわず、呪功はつうじて一切の病を治す」(十住心論)
「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(吽字義)
(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、煩悩魔(愚かさのために迷う魔)死魔(死を恐れ、死を願う魔)天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心をおこせば魔は逃げていくということです。)
「陀羅尼の秘法というは方によって薬をあわせ、服食して病を除くがごとし」(性霊集巻9)(密教の修法によれば処方箋どおりに薬をのむように効果がでる。)
華厳経、縁起甚深品には、
文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに、
「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」
これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。
「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。
たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。
眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。
だから、虚妄(こもう)といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない。
医経に「衆生病を得るに十因縁あり。一には久しく座して臥せず、二には食貸すことなし、三には憂愁、四には疲れ、五には淫逸、六には瞋恚、七には大便を忍ぶ、九には上風を制す、十には下風を制す。」
涅槃経に「一切衆生に四毒箭あり。貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢なり。もし病因あらばすなわち病生ずるあり。いわく、寒熱肺病、上気吐逆、皮体しゅうしゅう、その心悶乱、下痢噦咽、小便淋漓、眼耳疼痛、腹背脹満、顚狂乾消、鬼魅に着せらる。このごときの諸病諸仏世尊あることなし。」「二つの因縁あらばすなわち病苦なし。一には一切衆生を憐憫し、二には病者に医薬を給施す。」「もし仏子一切疾病のひとをみてはまさにつねに供養するところ仏のごとくにして異なることなかるべし。八福田(仏、聖人、和尚、阿じゃ利、僧、父、母、病人への供養)のなかに看病福田はこれ第一の福田ならん。」
中国の華厳五祖とされる圭峯宗密は「原人論」に「身を修めることなく悪行にふけるもの(夏の桀王や殷の紂王)が貴人の扱いを受け、倫理道徳の道を守るもの(孔子、孟子)は身分がいやしいとされ、徳行なくも財力に富み(斉の景公)徳があっても貧乏くらし(原憲)逆臣であっても吉祥があり(魏の曹操)大義に殉じても凶運となる(諸葛孔明)仁愛の実践者でも若死にし(顔回)横暴をきわめても長命のものがいる(盗跖)天の道に従順なものが亡び、道理に背反するものが栄えるといった不条理はどうしておこるのか」と書いていますが答えは書いていません。
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