祓詞(はらへことば)
「掛(かけ)まくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時(とき)に成(な)りませる祓戸大神等(はらへどのおほかみたち)諸諸(もろもろ)の禍事罪穢有(まがごとつみけがれあ)らむをば祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)へと白(まを)す事(こと)を聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)も白(まを)す」を毎朝となえています。最近では毎日の食事や身の回りの自然など神様のご恩によるものなのになぜ今まで分からずにうかうか過ごしてきたのだろうかと思うようになりました。
2009年5月11日月曜日
2009年5月10日日曜日
護摩の雰囲気
今日護摩のあとでいつもみえる若い方が「今日の護摩の雰囲気はいつもと違っていました」といいます。
「どう違いますか」と聞くと
「いつもは此の季節新緑のなかでいかにも寺に来ていると言う雰囲気ですがきょうは厳粛で仏様がそこにおられるという雰囲気でした」といいます。
毎日修法をし、瞑想をしているからそういう雰囲気になったのでしょうか。
それとも先日来瞑想のなかで「自分も山川草木も一切が如来の元から来ている」ということが実感できたのでそのせいでしょうか。
いずれにせよ昔田原先生がいわれた「行は修したら修しただけのことはある」ということばを思い出します。
「どう違いますか」と聞くと
「いつもは此の季節新緑のなかでいかにも寺に来ていると言う雰囲気ですがきょうは厳粛で仏様がそこにおられるという雰囲気でした」といいます。
毎日修法をし、瞑想をしているからそういう雰囲気になったのでしょうか。
それとも先日来瞑想のなかで「自分も山川草木も一切が如来の元から来ている」ということが実感できたのでそのせいでしょうか。
いずれにせよ昔田原先生がいわれた「行は修したら修しただけのことはある」ということばを思い出します。
2009年5月9日土曜日
観世音とは汝ら庶人これなり
白隠禅師は「「観世音とは汝ら庶人これなり」と喝破しました。今日夕方瞑想しているとき我々も山川草木も宇宙の摂理の元に存在し滅していくわけで如来であり如去であり観音さまであり仏様であるのだと実感しました。
山川草木には神霊が宿っていること
慈雲尊者の「人となる道」に「およそ物あれば能あり、能あれば徳あり。世間事物の中、楽器は工匠の手より出で来るものなれどもその妙物は必ずその徳備わるなり。刀剣はヵ鍛冶が手により造立せるももなれども、その逸物にいたりてはその徳あるなり。まして山川草木は広大なる物なればかならず神霊あるなり。地水火風はさらに広大なれば四大神その徳著しきなり。五穀は人民を利する功大なれば必ず神霊あるなり。天はさらに尊尚なれば天神その徳あり。日月星辰みな神霊あり。有徳の君、有功の臣みな神霊あるべし。」とあります。
見果てぬ夢「衆生無辺誓願度」
嶋野榮道師「禅僧ひとりニューヨークに立つ、愛語の力」に感動的な場面があリます。嶋野師が先輩千崎如玄師が永らく預かって世話をしていた精神障害児を施設に何十年ぶりかで訪ねたときその児が「しゅじょうむへんしぇいがんど」とだけ言えるようになっていたというのです。千崎師が子守唄代わりに何度もその児におしえたのでしょう。「これが祈りの力というものです。・・ジミーは私を千崎師と勘違いしたようでした。私を見るなり、延びない手を一生懸命伸ばしてよだれをたらしながらなにかをしゃべりかけてきました。耳を近つけてきいていると最後に「しぇいがんど」というのが聞こえました。「誓願度」のつもりでしょう。その言葉を聴いた途端全身に鳥肌が立ちました。それまで私自身何千回何万回「衆生無辺誓願度」と唱えてきたか分かりません。しかしあのときのジミーの口からでた「しぇいがんど」くらいズーンと響くものはあとにも先にもきいたことがありません。」と書いてありました。
精神障害児ジミーはまさに代受苦の菩薩として衆生の苦を引き受けていることを「しぇいがんど」で表しているのではないかとおもいました。
精神障害児ジミーはまさに代受苦の菩薩として衆生の苦を引き受けていることを「しぇいがんど」で表しているのではないかとおもいました。
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